その9
暗闇の中で彼の背を見つめるのは至難の技だった。背だけでも目を凝らすのに、彼のノートなど見られる訳もない。そもそもノートを机に置いているかも分からなかった。席も二つ離れているので、実際のところ彼がそこに存在しなくても変わりない事だった。
これではいつもの授業となんら変わらない。むしろそれ以下だ。といっても彼がここに現れたのは偶然の産物であり、本来彼はこの授業を取っていない筈だ。おそらく友人の代返でもお願いされたのだろう。あぁ、もやもやする。
私は眠気を覚ますのを止め、机に突っ伏した。暗闇と映像から成る睡魔はあっという間に私を包み込み、私は夢の中へと飛んでいった。
むにゃむにゃとした夢の中、私は一人映画を見ていた。スクリーンには見た事のない『朝顔のたね』が上映され、私はポップコーン片手にそれを眺めている。周りの客は奇想天外というべき者々で、猫だか馬だか潜水艦だか分からない生物達が滝のような涙を流している。
私は隣の席を見た。これが私の夢ならば、私の横に座る人間は一人しかいない。横髪に隠れて顔の見えない人物は、真剣そうな顔で映画を見ている。
ポップコーンを肘掛けに置き、私はその男性の肩を叩いた。男性はこちらに振り向く。逆光の中見えた人物は三山さんではなく、満面の笑みを浮かべた三山さんの友人のへんてこ男だった。
「うげえ」と叫びたくなる気持ちを必死で抑え、私は目前のスクリーンを見た。スクリーンには、ちりちり頭の男性がガゼルを捌いている映像が浮かび上がっていた。そのグロテスクな光景と、夢も希望も無い夢に気分が悪くなった。
私は席を立ち、教授の元へと向かった。とてもじゃないがあんな光景を見せられて正気じゃいられない。一度顔を洗いたかった。「トイレに行きたい」と言うと、教授は「あぁはいはい」と返事し、私はそれを聞き流して教室を出た。
時計を見ると、針は十六時五分を指していた。ついでだからジュースでも買っていこう。
外の風は冷たく、階段を降りている途中で私は急激に腹を冷やし、進路を変えてトイレへと急いだ。元々私は寒さにめっぽう弱く、腹を下しやすいのだ。冬本番にもなれば厚着をすればいいだけだが、こういった寒いのか涼しいのか分からない微妙な気候は、油断しているとあっという間にトイレに直行する事になる。
階段をせかせかと降り、地上の楽園たるトイレを目前に迎えた。しかし楽園に降り立った私を向かえたのはトイレの神様ではなく、私にとっては神にも勝る三山さんその人だった。三山さんはトイレ横の灰皿台で、煙草を吹かしていた。
私は若干パニックになりつつも、はしたない女と思われないように冷静を装い、一礼してからトイレに駆け込んだ。
用を足した後も私は便座に座りこみ、己のはらわたを親の敵の如く憎んだ。この胃腸がもう少し暑がりだったならば、私は三山さんと偶然の出会いを果たし、会話に胸弾むことも出来ただろう。「授業の愚痴」、「比較文化論」、『朝顔のたね』、「ラピッド・シガレット」、幾つもの話の尽きない材料を持ってしても、私は腹痛には勝てなかった。もう二度と薄着などしないと心に誓う。
顔を洗ってから外に出るも、三山さんの姿はもう無く、灰皿台から白い煙がゆらゆらと揺らめいているだけだった。私はため息をつき、ジュースを買うべく購買へと向かった。
時刻は十六時二十分。教室に戻る頃にはもう授業も終わっているだろう。しかしそんな事知ったこっちゃない。
購買でバナナミルクセーキを買い、飲みながらのびのびと教室に入った。教室には既に明かりが灯り、学生達が帰る準備をしていた。三山さんもその中にいる。
私は自分の席に戻り、出席カードを教授に提出すると、同じように帰る準備をした。次の授業はバイオインダストリー論だ。せっかく彼と出会えたのに、私は何事も無く授業を終え、また授業へと向かおうとしている。むしろチャンスを棒に振ってしまっただけに、普段よりも余計に気が滅入る。
私は落ち込み、何をするでもなく教室を出た。出た後に、話しかければ良かったのではと思い、再度落ち込んだ。神の御加護を持ってしても、今日もまた進展無し。