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うさぎと煙草とストーカー  作者: 田中アマノリ
8/25

その8

 神はいないのだと俺は確信した。仮に神がいるとしても、今頃他の八百万の神々と共に俺を眺めて大爆笑しながらコーラでも飲んでいるに違いない。


 教室に入った瞬間、右端の席に見覚えのあるシュシュが見えた。その時の俺の顔は、一体どれだけの悲しみを凝縮したような顔をしていただろうか。「後悔」と「絶望」と「やっぱりかちくしょう」という黒々とした色に添えられた俺の顔は、さぞや暗色だったに違いない。


 俺は観念し、せめて彼女から離れられる席はないかと見回したが、どこの席も座る学生からの「俺の横に座るなオーラ」が滲み出ている。


 唯一誰とも隣り合う事なく座れる席が、彼女の二つ前の席だった。俺はまたもや観念してその席に向かった。


 席に向かう途中、彼女の顔をちらりと見た。彼女は俺の顔を、中国から来日してきたパンダでも見るかのようにぽうっとした目で見ていた。


 そういえばこうしてまじまじと彼女の顔を見るのは初めての筈だ。しかし特に感動も無ければ憎しみも無い。あるのはただ、「帰りたい」という強い思いだけだった。


 授業の開始と共に、教授は名刺程のサイズの出席カードを配り始めた。一人一人手渡しすればいいものを、年のせいか出っ張った腹のせいかは分からないが、前の席の学生に渡して後は人任せとなった。


 前の学生からカードを受け取り、自分の分を控える。残りの分を後ろに回さなければならないが、誠に遺憾ながら俺の後ろに控えるのは彼女だけだった。


 本日三度目の観念をした俺は席を立ち、彼女の元へと向かう。喜びも悲しみも嫌悪の表情も浮かべず、掃いて捨てる程いる人間のオーラを出しながら彼女にカードを渡す。


 彼女はウサギのようなくりくりとした目で俺を見つめ、「ありがとうございます」と言った。それに対して俺は、「僕はあなたの望むような男性ではありません。違う男性を見つけてください」と彼女にテレパシーを送って席に座った。彼女がきちんと受信してくれる事を切に願う。


 授業は自分が履修した時と何一つ変わらない退屈さで、他の学生と同じく眠気に襲われた。しかし俺は抗う事無く襲い来る睡魔に身をゆだねようとしたが、いつにも増して熱い彼女の眼差しと、食い殺すような気配に産毛が直立した。眠ったら最後、行方の知らない場所で監禁されるような気がして落ち着かない。


 仕方なく目前のスクリーンに目を向けるも、どこか遠くで暮らす他民族の生活など面白い訳が無い。ましてやこの映像を見るのは二度目だ。映し出された庭のカットが終わると、チリチリ頭の長身男性がガゼルを背負って帰って来ると予想すると、俺の考えに応えるようにチリチリ男性はスクリーンに現れた。


 教室を出て一服しながら時間を潰そうかとも思ったが、プロジェクターからの逆光に照らされた、酷く気味の悪い教授の目が俺と合った。


 忘れていた。この授業は退出する時教授に理由を説明しなければならなかった。説明と言っても、許されるのはトイレと命に関わる緊急事態くらいしかない。前門には教授、後門にはストーカー。どちらが安全かと言われれば言うまでも無いが、そもそもなんで授業一つに俺の命運がかかるのだ。


 携帯電話を取り出し、時間をチェックする。バックライトと共に光る時計は十六時を指している。授業終了まで三十分。ならば半分の十五分くらいはトイレという名目で抜けられるだろうと思い、俺は教授の元へ向かった。


 教授に物凄く酷い便秘を抱えているという物凄く酷い言い訳をし、俺は教室を出た。もうすぐ夏だというのに外の風は強く、けれど日差しは眩しくて、俺の目を一瞬眩ませた。俺は上着のポケットから煙草とライターを取り出し、鼻歌交じりで喫煙所へと向かった。


 階段を降りたところにある灰皿台で一服する。思うに授業中に抜け出して一服するという行為は、なんと背徳的で煙草の味の深みを増すのだろうか。静かな空間の中で一時の安らぎを感じていると、ガコッというどこかの扉が開く音がした。灰皿台から離れて階段を見上げると、その扉は俺がいたC-24教室の物だった。


 見間違えようが無い。中から出てきたのは、後門の番人たる彼女だった。


 俺は思い出した。比較文化論の授業でも、彼女は俺を追いかけて授業を抜け出してきたのだ。なんという失態! これではまるで意味が無い。


 すぐに逃げだそうと思ったが、時既に遅く、彼女はもう間もなく地上に降りてこようとしていた。階段を降りる足音がだんだんと近づいてくる。今ここで逃げだしたら、姿を見られて逆上させてしまうかもしれない。「なんで私から逃げるの?」などと言われたら何も返せやしない。それこそ命運をかけた鬼ごっこがスタートしてしまう。


 やがて階段の音は俺の前で止まり、ついに彼女と俺は遭遇した。あぁ、万事休すか。


 しかし彼女は何をするもなくこちらにぺこりと一礼すると、灰皿台横のトイレへと入って行った。

 彼女の姿が消えるのを確認すると、息と共に煙をふうと吐き出し、煙草を胸ポケットにしまった。とてもじゃないが、ここで時間を潰そうとは思えない。拍子抜けした俺はそのまま教室へと向かった。何も無かった事に、これ程までの喜びを感じた事など今まで無い。


 しかし何かが突っ掛かる。何故俺は喜ばしい事なのに、拍子抜けしているのだろうか。これではまるで俺が彼女を待っていたように感じる。おぉ、気持ち悪い。

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