その6
ぶるりと背が震えた。恐らく冷蔵庫の冷房が強すぎたのだろう。電気代ももったいないし、そもそも今月分を支払えるかどうかも分からないので節電しようかと思う。
空腹を感じた俺は、何かないかと思い冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中にはビール以外何も無く、腹ただしさが余計空腹を増加させた。食える物はないかと思って棚を開けるも、米びつが鎮座しているだけで他は何も無い。埃くらいはあったかもしれないが、あったとしてもふりかけにすらならない。
時計を見ると、時刻は十時半を指していた。こんな時間では近所のスーパーも定食屋も閉まっているだろう。コンビニに行って何か買おうと思ったが、財布の中身が俺の考えを断固拒否した。
財布には千三百二十五円入っていた。ここからツタヤの延滞料をマイナスすると、大体百円ちょっと残る計算だ。これっぽっちでコンビニで買える物なんてたかが知れていた。おにぎり一個ですら危うい。
俺は財布を部屋の隅に投げ飛ばし、万年床の上に寝転んだ。手探りにリモコンを手に取ってテレビを付けてザッピングするも、特に面白そうな番組は放送していない。
諦めて俺は体に勢いを付けて起き上がり、米を炊く事にした。今日の夕食は塩ごはんだ。父母が知れば悲しむ事間違いないだろう。
じゃりじゃりと米を研いでいると、携帯電話が鳴った。電話の着信音だ。俺は釜を電子レンジの上に置き、携帯電話の元へ向かった。電話は三山からだった。
「もしもし?」
「あぁ、俺だ。何してた?」
「米研いでたよ」
「こんな時間に夕食かよ」
「遅めに食っとけば寝るまで腹減ることも無いだろ」
「そういうもんか?」
左肩と耳の間に携帯電話を挟み、再度米を研ぎ始める。夜に何事かと思えば、三山の話は何一つ楽しくないただの惚気話だった。最初こそ「はぁ」だの「へぇ」だの甲斐甲斐しく真面目に答えていたが、そのうちそれすらも面倒くさくなり、俺は携帯電話を電子レンジの上に置いた。
三山はさも楽しそうに話しているようだったが、生憎こちらには米が泳ぐ音しか聞こえない。しかし三山は満足そうだった。とりあえず惚気話を誰かに聞いて欲しかっただけだろう。どこまでも腹の立つ奴だ。
洗った米を炊飯器にセットし、「早炊き」のボタンを押す。さすがに三山も切っただろうと思い携帯電話に耳を当てると、やっと彼女の素晴らしさを語り終え、自分と彼女の「相性」を語り始めていたところだった。
俺は腹を力ませ、放出物が肛門に近づいてくるのを感じると、それが放出される瞬間に素早く携帯電話を尻に当てた。「ブビッ」という下品な音と共に、鼻を削ぎたくなるような臭いが部屋を包み込む。
「お前、人が話してる時に屁ェすんなよ」
三山はぶうぶうと怒り散らしていたが、俺にはどうでもいいことだ。適当にあしらい電源ボタンを押そうとすると、察知したかのように三山が「あっ!」とわざとらしく言った。
「お前が言ってたグループのCD、ツタヤで借りたぜ。ラビットシガレット」
「ラ『ピ』ッド・シガレットだ。借りたならちゃんと覚えとけよ。で、感想は?」
「んー、普通かな」
「だろうな。洋楽中毒のお前に合うとは思わんよ」
適当にあしらって再度電源ボタンを押そうとすると、三山が「ちょっと待ってくれ」と言った。勘のいい奴だ。それともこいつには俺が見えているのだろうか。
「志村、明日暇か?」
嫌な予感がする。
「授業は入れてないし、特に予定も無いけど」
「頼む。明日の四限の『文化人類学Ⅰ』を代返してくれ」
ほら来た。
「はぁ?」
「明後日に彼女の家に行くんだ。その為の服を買いに行きたくてさ」
「いつものじゃ駄目なのか?」
「バカたれ。好、青、年っぽく見られる服が欲しいんだ」
どうやら三山は、自分が好青年には見えないというのをちゃんと自覚しているらしい。一回生の頃に出会って以来、三山の一目で避けたくなる服装センスは変わってなく、事実俺も初めて出会った時は避けた。
俺は彼もちゃんと成長する事が出来るのだと思い、母心にも似た安堵を浮かべた。
「わかったよ。ただし、バイト代は貰うぜ」
「お安い御用だ。三千円な。今度会った時に渡すよ」
「オッケイ。じゃあ、まぁよく見られるように頑張れよ。髪も脱色しとけ」
「はいはい。じゃあまたな」
そう言って三山は電話を切った。俺は携帯電話を布団の上にめがけて放り投げ、座布団の上に腰掛けた。
しかし三山という男は、どうしてああも女に入れ込む事が出来るのだろうか。あのラブラブっぷりを見せつけられると、自分の歩んできた二十年が不公平に思えてならない。三山が恋人の尻を追っかけている間に、俺は見知らぬ女に追っかけまわされている。この事実が悲しくてたまらなかった。
まぁいい。三山はちゃんとバイト代を出すと言った。ツタヤの延滞料金がある手前、質素な生活を覚悟していただけにこのお金は大きかった。
明日受ける事になった「文化人類学Ⅰ」は俺が一回生の頃に履修した授業だ。どの学部でも履修登録が出来る筈だが、取る者は少ない。しかし残念ながら我々民俗学専攻の生徒には必須科目であった。
猛烈に眠気を誘う教授の安眠ボイスと、それに重なるように繰り返される退屈極まりないどこぞの民族のホームビデオ上映により、数多くの学生に「不可」の二文字を叩きつけてきた。三山もその内の一人だろう。
一瞬、あのストーカーの彼女の姿が頭を過った。さすがにこんなつまらない授業を彼女が取っているとは思えない。少なくとも文学部の棟で見たことも無いので、彼女は同学部ではないだろう。
ならばいる訳がない。
いる筈がない。
いたらおかしい。
というかいないで欲しい。
本当にいないで欲しい。