その4
授業が終わってすぐに、俺は食堂に向かった。幸い三山から前払いでバイト代を貰っていたので、財布の中はそれほど寂しくはない。
券売機で日替わり定食の食券を買うと、食堂のおばちゃんに食券を渡し、適当な席に腰かけた。昼休みからずれた時間帯のせいか人はまばらで、自分以外にも一人で食事を取る学生がちらほらといる。
いつもなら友人と飯を食うが、この水曜日に限ってはしょうがない。水曜日には先程の比較文化論しか入れていないのだ。わざわざ飯を食う為だけに早く行くのも馬鹿らしい。
「おまちどお」という声と共に、おばちゃんがメンチカツの乗った御膳を持ってきた。ここのおばちゃんは音も無く近寄ってくるので少し気味が悪い。その気配を消す能力を、あの女にも分けてあげられないだろうか。
食べやすいようにメンチカツを突いていると、誰かが俺の向かいに腰掛けた。三山だ。
「よぉ志村。授業終わりか?」
「そうだけど何か用か。暇なら出席すればよかったのに」
「いやぁ、もうお前にバイト代渡しちまったしな。それにいきなり生徒が変わったら、いくらあのジジイ教授でも気付くんじゃね」
「あぁそう。こっちはお前のせいで散々だよ」
俺は自分がどのような気を持ち、どのような目に合っているかを事細かに多少脚色して話した。三山は一度「ヒャッヒャッ」とへんてこな笑い声をあげ、くるくると箸を回して言った。
「そりゃ災難だな。でもバイト代は上げないぞ」
「なんでだよ」
「だって俺の責任じゃねーし」
「死ね、マジで死ね。性病にかかれ」
「やだよ、バカ」
三山はへらへらと笑い、嫌味にも交渉にも動じなかった。なんだか余計に腹が立ち、残ったメンチカツの二切れを口に運び、一気に水をかっこんだ。
カツを咀嚼しながら俺は後悔した。しまった、ゆっくりと味わって食べようと思っていたのに。
しかたなく残ったキャベツをちびちびと摘まんでいると、三山は俺の事など見向きもせず、俺を挟んだ向こう側を見ていた。
「どうした。いい女でもいたか?」
「俺は彼女一筋だよ。いや、俺も何か食いたくなってな」
背後には券売機がある。ここから見ると、埃被ったロウ細工のサンプルと共に少しだけ覗いて見えた。
思うにあのサンプル品はすぐにでも取り下げるべきだ。前に腹が減っている時に見たら、「これ美味いのかな」という考えが出てきて、危うく人間の尊厳を失いかけた。
「金は?」
「ん、あるよ」
「じゃあ食えばいいじゃんか」
「いや、今日は学食って気分じゃないんだ」
一々鼻に付く男だ。
残っていたキャベツも一切れ残らず平らげ、鞄から煙草とライターを取り出して俺は席を立った。三山は煙草を吸わない筈だが、多分一人は嫌なのだろう。何も言わず席を立ち、俺の後に付いてきた。
食堂外のベンチに腰をかけ、ラークの箱から一本取り出して火を付ける。一吸いし、何も無い空へと煙を吐き出した。三山があからさまに怪訝な顔をするので、俺はもう一吸いし、間髪入れずに彼の顔に吐きかけた。
「やめろや」
げほげほと咽ながら三山は言った。
「悪い悪い、風の流れが悪かったんだ。お前煙草嫌いだもんな」
「なんで吸うんだよ。煙草なんて悪性物質の塊だぞ」
「煙だっての。でもお前の彼女喫煙者だろ」
「彼女の吐く煙はいいんだ。彼女の煙からはシトラスミントの香りがする」
煙以外の物が喉元に込み上げた。いつから三山はこんな気色悪い男になったのだろうか。少し考えたが、すぐに馬鹿馬鹿しくなってやめた。恋の病とは嗅覚をも麻痺させるらしい。
咥えた煙草は灰に変わり、箱から新しい一本を取り出そうとしている時に三山は言った。
「なぁ、お前がいつも聴いてる音楽ってなんだっけ? 邦楽だよな」
脈絡も無くこいつは何を言い出したのか。そう思いつつも素直に答える。
「ん? あぁ、ありゃ『ラピッド・シガレット』ってバンドだ。お前の言う俺がいつも聴いてるってのは、多分『アサガオ』って曲だろうな。いつも聴いてるし」
このバンドは俺のお気に入りだった。曲のテンポも自分好みだが、何より歌詞が良かった。率直な言葉や単語を使わない、遠回しなメッセージが俺の胸を揺さぶった。それでいて意味が掴めるのだから凄い。インディーズの頃からのファンだが、最近大手レコード会社に拾われ、人気を集めている。
中でも俺が一番好きな『アサガオ』という曲は、今公開されているナントカという映画の主題歌らしい。俺はあまり映画を見ないので、そちらは完全にノータッチだ。
「洋楽ばっか聴いてるお前がJポップに興味持つなんて珍しいな。彼女に合わせてるのか?」
「いや、なんか気になったんだよ。お前の耳からいつも漏れてるし」
お茶を濁すような言い方で三山は言った。長年付き合っていると言い方で大体分かるのだが、どうやらこいつは何かを隠しているらしい。
案の定、急に三山は「帰ろう」と言い出した。もうすぐ授業が終わるとほざいてはいるが、時計を見るとまだ二十分も残っていた。しかし引き留める用事もなく、荷物を取って三山と共に校門へと歩き出した。
校門を出て駅沿いの道を歩く。そろそろだろうと見切りを付けた俺は切り出した。
「なぁ、三山。なんかあったのか?」
三山は若干憐れむような目線を寄越して言った。
「やっぱお前気付いてなかったんだなぁ。おぉ怖い怖い」
「気付いてないって何によ?」
「俺らが座ってたベンチの後ろ、木ィ挟んだ所に女の子がいたぜ。可愛らしくちょこんと座って盗み聞きしてたよ」
一瞬にして背筋が凍った。そのまま砕けてしまいたかったが、掠れるような声で俺は訊く。
「いつからだ」
「んー、お前が煙草の煙を俺に吹きつけた辺りじゃね?」
「言えや!」
「悪い悪い。目がしょぼしょぼしてて言う暇なかったんだよ」
言うまでもなくわざとだ。そんなに煙をかけられたのが気に入らなかったのか。喫煙者の彼女がいるというのに。俺は肩を落とし、三山のへらへらした笑い声を聞いていた。
「まぁ、今のところ害はないんだろ? じゃあいいじゃねえか。案外話してみたら気が合うかもしれないぜ」
「勘弁してくれよ」
それからも思い出しては笑っていた三山とは駅前で別れ、中津川方面の電車に乗った。
幸か不幸か三山の機転のおかげで、比較的空いた車両に乗る事が出来た。俺は端の席に腰掛け、手すりに腕を乗せて頬杖をつく。
下宿先の最寄り駅まで五駅ある。暇つぶしに小説でも読もうと思い、鞄を開けた。ごそごそと弄ると、小説の下に見覚えのある青い袋があった。よく見るとそれは、ツタヤのレンタルケースだった。忘れていた。借りたCDの返却期限が今日だったのだ。
ツタヤは駅の反対側にある。三山と話しこんでいる内にすっかりと忘れていた。今更乗り換えようにも、この電車は急行便で降りられない。
思わず「はぁ」とため息をこぼし、頭を垂れた。全部三山とあの女のせいだ。しかし俺のせいでもある。よりにもよって何故俺はCDを六枚も借りてしまったのか。何故俺の乗る電車は急行便ばかりなのか。
(延滞料金もばかにならんな、千二百円くらいか? あぁもう、明日は昼飯抜きだ。ちくしょう。ウオオオオオオオオ!)
鞄に顔を埋め込み、俺は心の中で咆哮した。