その3
授業が終わるまで二十分を切ってしまった。時間はなんて進むのが早いのだろう。
今日の三山さんはいつにもなくよそよそしかった。ノートに書く文字は少し乱れ、イヤホンから漏れる音楽もいつより二割増し程音量が大きかった気がする。何か苦しい事でもあったのだろうか。何かしてあげたくても、私には何も出来ないのが現状だ。もしかしたらお腹が空いているだけかもしれない。
私はなるべく授業外では彼を追わないようにしている。用も無いのに彼を追うようでは変態の所業だ。しかし偶然の産物で彼に出会ってしまった、または見かけてしまったのはノ―カウントとしている。
口惜しくもチャイムの音と共に教授は授業の終わりを告げ、三山さんもまた他の学生と同じようにそそくさと教室を後にした。よっぽどお腹を空かせていたのだろうか。きっと遅刻ギリギリで、ごはんを食べる暇が無かったのだろう。
私もまた席を立ち、教室を出て行った。喉が渇いたので、食堂横の購買でジュースを買おうと思い立ち寄ったところで、私は偶然にも三山さんを見かけた。
彼は一人で日替わり定食を食べていた。友達が居ないのかと思ったが、こんな私にも気を使ってくれるぐらいだ。きっと友達との予定が合わなかっただけだろう。私は「これはノ―カウント」と自分に言い聞かせ、机を二つ挟んだ彼の後ろの席に座った。
十分程経った頃だろうか。彼の席の前に誰かが腰をかけた。民族衣装のように妙にゴテゴテした服を着た茶髪の男性で、およそ私の趣味ではないへんてこな人だ。その人は三山さんの前に座ると、何やら楽しそうに談笑し始めた。
私は席を立ち、ジュースの空きパックを捨てるついでに彼らを見た。
ゴテゴテしたへんてこ男性に興味は無い。目的は三山さんだ。三山さんはそれはもう楽しそうに笑っていた。口を大きく開ける様子は子供のように無邪気で、時折覗かせる真面目な顔は凛々しく、非の付けどころの無いイケメンぶりだ。
私は思わず携帯電話で写真を撮ろうとしたが、悲しくも私と五年近くを共にした相棒は、知らぬ間に電池が切れて臨終していた。十秒だけでいいからと願っても、ピーともガーとも言わない。役に立たない奴め。そろそろ変え時かもしれない。
仕方なく私は彼の笑顔を目に焼き付けるべく、食券販売機の陰から彼を凝視した。途中へんてこ男がこちらに気付きかけたが、私は何を食べようか迷う生徒のフリをしてやりすごした。我ながら素晴らしい演技だ。そう思っていたら、食券を買いに来た学生にぶつかってしまった。私は素直に「ごめんなさい」と謝る。
その隙に三山さんはへんてこ男と共にどこかへと消えてしまった。一瞬慌てたが、何を気にするほどでもない。彼らがいた席にはきちんと手荷物が置かれている。つまり彼らはまだ近場にいるという事だ。恐らくトイレか食後の一服にでも行ったのだろう。
案の定、彼らは食堂を出てすぐにあるベンチにいた。私は彼らが出ていったのであろうドアの反対側のドアから外に出て、回り込む形で彼らの後ろのベンチに腰掛けた。
三山さんは赤色のパッケージをした箱から煙草を一本出し、ライターで火を付けて一服していた。隣のへんてこ男は煙草を吸っていない。多分彼に付き合っただけなのだろう。彼の口からぷかりと吐き出される煙は空気と混ざり合い、そのまま霞の如く消えていく。
私は煙草を吸わないし嫌いだが、彼の吸う煙草は別格だ。彼の口から吐き出される煙は、きっと青りんごのような爽やかな物に違いない。
残念な事にここからでは彼らの声は聞こえなかった。あまり近づきすぎると、彼らは私に感づいてしまう。なんだかんだ言って私達は一回も言葉を交わした事が無いのだ。彼もいきなり私が現れたら、何を話していいか分からず混乱してしまうだろう。それ以上に私が正気でいられる自信が無い。
しかし私は三山さんの声が聞きたかった。一体何を楽しそうに話しているのだろうか。彼は一体どんな物が好きで、どんな物に興味を持っているのだろうか。私が持っている情報は「ポップな音楽と日替わり定食が好きで、マメな所のある優しい性格をした民俗学を専攻する男子学生」という事だけしかない。
これではまるで足りない。私はもっと彼の事を知りたい。もっと知って、もっと好きになりたかった。
気が付くと私は、ベンチの後ろにある植木のレンガに腰掛けていた。自分でも自覚が無い。少しでも目立たないようにと背を後ろに向ける。彼の姿が見えないのは悔しいが、声はよく聞こえた。
「なぁ、お前がいつも聴いてる音楽ってなんだっけ? 邦楽だよな」
この声はへんてこ男だ。へんてこな声をしている。
「ん? あぁ、ありゃ『らびっとしがれっと』ってバンドだ。お前の言う俺がいつも聴いてるってのは、多分『朝顔』って曲だろうな。いつも聴いてるし」
この声は彼の声だ。なるほど、長い間謎だったあの曲は「らびっとしがれっと」というバンドの曲なのか。帰りにツタヤに寄って捜してみよう。
「洋楽ばっか聴いてるお前がJポップに興味持つなんて珍しいな。彼女に合わせてるのか?」
「いや、なんか気になったんだよ。お前の耳からいつも漏れてるし」
それには私も同意する。
「まぁ気にすんな。それよりそろそろ帰ろうぜ。もうすぐ授業も終わるだろうから、そろって生徒の大群が来るぜ。帰りの電車が混んじまうよ」
「マジで? もうそんな時間かよ」
腕時計を見ると、確かに授業の終わりまで二十分を切っていた。もうそろそろ学生達の波が校門に押し寄せて来るだろう。私は音を立てないようにすっと立ち上がり、その場を後にした。
こんな泥棒のように立ち去るのは、なんだか気持ちが悪かった。ひょっとしたら私は、俗に言う「ストーカー」という奴になっているのではないだろうか。
私は即座に「いや違う」と両断した。これは彼をよく知る為の行為であって、彼に迷惑をかけるつもりなど微塵もない。これは言わば「観察」だ。それが罪になるのだと言われたら、子供を見守るお母さんは皆有罪だ。
まぁいい。犯罪かどうかなんて、ツタヤに行くまでの道程で考えるとしよう。