その23
先日桜田さんに食事を誘われ、私はなごやんに来ていた。店内は日差しのようにほんのりと明るく、中を見渡す事が出来た。遠く離れたテーブル席には、夫婦と思われるお年寄りが座り、二人共月見うどんを啜っている。そのうどんももう消えようとしていた。
お客はその二人と私以外誰もいない。神棚の横に掛けられた時計を見ると、時刻は二時十分を指していた。遅い。桜田さんとは二時に約束していた筈だ。
携帯電話を取って彼女にメールをしようとする。しかし先程のメールから五分と経ってない事に気づくと、私は携帯電話を閉じて鞄にしまった。
老夫婦が立ち上がり、店主に「ごちそうさま」と言って出て行った。しんとした空気の中、私だけが取り残される。何も注文していないので、時折覗く店主からの視線が痛い。
気晴らしに『朝顔のたね』を読もうと鞄を漁るも、中に入っていない。奥深くまで手を突っ込んでみるも、それらしい物体には手を触れなかった。
私は諦める事にした。どこかに忘れてきたのだろうかと思ったが、特に気にする必要はない。物語はもう終わろうとしている。後十ページも無かった筈だ。例え失くしていても、本屋で立ち読みすればいい話だ。
少し前のそのまた前までの私ならば、きっと焦った事だろう。あの本は私にとって恋愛のバイブルのような物だった。ヒロインと自分を重ね合わせて一喜一憂し、物語をなぞるように自分の道筋を辿っていた。
しかしもう私には関係ない。あれは物語の中の彼女の話であって、私の恋愛とは別なのだ。例え彼女が失恋して終わったとしても、私と彼女は違うのだ。こんな当たり前の事に、私はずっとすがっていた。
再度私は時計を見た。桜田さんはまだ来ない。メールの返事も無いままだ。こんな時どうするかは決まっている。志村さんとの未来を考えるに限る。しかし今までのような夢見がちな妄想はしない。現実的な、今までとは違う私を想像するのだ。
志村さんと話したい事は山程あった。その中には、昨日三山さんと話してしまった事もある。しかし私にあるのはそれだけじゃない。何より私は、彼の事が訊きたいのだ。私の知っている志村さんを再確認したい。彼との共通点を見つけるのではなく、私と彼の相違点を知りたい。私が知らない彼を、私は知りたい。
ちりんちりんという涼しげな鈴の音が聞こえた。扉を閉める音と共に、こつこつと靴の弾む音が聞こえる。どうやらお客が来たようだ。桜田さんだろうか?




