その22
学生らしき人間に紛れて、俺は駅を出た。人ごみは飴玉に集る蟻のように列を作り、大学のある方向へと歩いて行く。俺はその列をそっと離れ、なごやんへと向かった。
なごやんまでの道程を、さほど急がず歩く。三山は待ち合わせには必ず遅れる男だった。自分が言いだしっぺだろうとこちらが急用だろうと、彼はへらへらしながら十分は遅れてきた。しかしそれでも彼女との待ち合わせは三十分前には到着しているらしい。どこまでも憎たらしい男だ。
なごやんの前に着くと、老夫婦と思われる客が出てきた。俺は道を空けて一礼し、入口横の小窓から中を覗いた。店内に人はいるが、柱が邪魔でよく見えない。しかし三山では無い事は確かだった。服装からして女性客だろう。
俺は携帯電話を取り出し、電話帳から三山の項目を選んで押した。三コール程鳴った後、三山は出た。
「もしもし」
「俺だ。おい、待ち合わせは二時の筈だろ。いねえじゃねえか」
「あれ、もう中入っちゃったの?」
「まだだよ。今中見てるけど、お前いないじゃねえかバカたれ」
「え、マジで?」
電話の向こう側から、女性の声が聞こえる。何を言っているかは分からないが、聞き方によっては慌てているようにも聞こえる。浜田さんだろうか。
「で、お前いつくんの?」
「もうちょっと待って。店の中に誰かいる?」
「一人いるよ。よく見えないけど」
「よく見えない?」
「柱と湯気にガードされてる」
「おお、そうか」
三山は安心したように言った。
「そうか。いや、すまん。……え? あ、うん。ああそうだ。ついでだからジュース買っといてくれない」
「はぁ、何でだ?」
「詫びだよ詫び。お前、この前仏語で追い出されただろ。先生にも代返がバレた。俺の大切な授業がパーになったかもしれないんだぞ」
「まあそれは悪かったよ。でも代返してやったのに変わりは無いじゃないか」
「いいから買ってこいアホ!」
唖然とした。まさかこいつにアホと言われる日が来るとは思わなかった。彼の怒鳴るような声に圧倒され、思わず「うん」と言ってしまった自分が憎い。
「分かればいいんだよ。じゃ、後で行くよ」
そう言うと三山は電話を切った。携帯電話をズボンのポケットにしまうと、俺は駅の方へ歩いて行った。ジュースの自動販売機はここら辺には無い。一番近いのは駅の切符売り場の所だった。
駅に着き、自動販売機の前に立つ。多くのジュースがあるが、俺はコーヒーミルクをチョイスした。三山は乳飲料が飲めないからだ。飲み物の指定はしていないのだから、これでも文句は言わないだろう。というより言わせない。
駅を離れ、再度なごやんの前に立つ。腕時計を見ると、時刻は十四時十分を指している。約束の時間から十分のオーバーだ。駅の方に目をやると、電車が停止するのが見えた。今までの経験から言って、きっと三山はあの中から降りて来るだろう。
しかしどれだけ待っても三山のへらへら顔は現れない。もしやと思って次の電車が来るのを待つも、それにも彼は乗っていなかった。
俺は諦めて中で待つ事にした。ちりんちりんと、涼しげな音が聞こえた。
その時の俺の顔がどんな顔をしていたかは分からない。しかし前とは違い、そこまで絶望していなかったと思う。「嵌められた」という強い気持ちの中には、落ち着いて物事を見渡せる余裕があった。安心すらもしていた。
角にある防災ずきんの置かれた席には、彼女がいた。うどんも食べず、かといって何か注文した訳でもないようだった。こちらに気付くと、彼女はぎょっとした顔を浮かべ、すぐに顔を伏せた。俺は何も言わず財布を取り出し、券売機で「たぬきうどん」のボタンを押した。
出てきた食券を店主に渡すと、店主は言った。
「例の彼女、来てるよ」
神が何を考えているのか、ますます分からなくなった。しかし俺は落ち着き、苦い笑みを浮かべた。




