その21
文学部の棟に足を踏み入れると同時に、私の心臓が強く胸打つのを感じた。出来れば入りたくない場所だった。せめてもう少し間を置きたかった。
廊下で人とすれ違う度に肩が震える。足取りも重く、気分はどん底だ。しかし私にはどうしても行かなければならない理由があった。桜田さんとの約束だ。
三階の廊下を渡り、B‐31教室の前に立つ。扉についた小窓からは、一番前の席に座る桜田さんの姿が見えた。
彼女はこの授業を受講していない。教授に別の授業の欠席数をチャラにして貰う代わりに、授業を手伝えと言われたらしい。学生に向かって熱弁を奮う教授の顔を見ると、ほんわかとした人の良さそうな印象を受けた。恐らくこういった行為は、学生への戒めと同時に救済でもあるのだろう。
しばらく見ていると、彼女は気だるそうに、しかし笑顔は忘れずに可動式ホワイトボードを動かし、プリントを張り付けていった。笑顔の向こうには一体どれだけの不満を持っているのだろうか。
時計を見ると、授業終了まで十分程あった。暇を持て余した私はその場を離れ、廊下の先にある文学部の研究室の方へと向かった。
ちらと見た記憶が正しければ、そこにはジュースの自動販売機があった。小さなテーブルと椅子もあり、座って時間を潰せる憩いのスペースのようになっていた筈だ。
取り出し口からジュースを出していると、誰かに肩を叩かれた。一瞬身構えたが、それは三山さんの友人のちゃらついた男だった。前に見た時と違い、髪の色が黒色に戻っている。
「やっぱり」と小さく呟いた後、男は話しかけてきた。何がやっぱりなのか分からない。
「ねえ、今暇?」
一瞬にして私の体は硬直した。タチの悪いナンパかと思ったからだ。しかし自分にそんな魅力があるとも思えず、普通に答えた。
「ええ、暇ですけど」
「じゃあさ、ちょっと話さない? 俺も人待ってて暇なんだよ」
彼は傍のテーブルを差し、腰掛けた。私も彼の前に座る。思えば、こうしてまじまじと彼の顔を見るのは初めてだ。
驚く事に彼が待っている人物とは桜田さんの事だった。どうやら昨日喧嘩をしたらしく、仲直りをするべくここに来たらしい。しかしそう語る彼の顔は、どこか釈然としないもやもやとした表情だった。
私と彼は他愛ない話を繰り返した。授業の事、好きな音楽の事、特にオチも無い日常の事。それらは全て、三山さんと話したかった事だ。しかし私の言葉は止まらず、思い出を塗り潰すかのように彼に話し続けた。最初は授業の事や恋人の事を語っていた彼も、途中からは聞き役に徹した。
しかしどれだけ話しても楽しくない。最早これは身の上話などではなかった。愚痴だ。身の上話を語るようにして、私は彼に愚痴をぶつけているのだ。
しかし言葉を止める事は無かった。話す事が無くなったら、思い出のねつ造をして話した。どんな私の言葉にも、彼はうんうんと頷き続けた。見た目とは大違いだ。こんな人を、ちゃらいだけの男と思っていた自分が恥ずかしい。
ふっと彼は遠くを見つめ、手を振った。その方に目をやると、そこには桜田さんがいた。桜田さんは、天変地異に遭遇したかのような血相を抱えた顔をしている。
「ちょあんた。何してんの!」
この言葉は私達二人に言っているようだった。私は桜田さんに手を掴まれると、物凄い勢いで廊下を引きずられて行った。
「ちょ、さくちゃん!」
小さくなっていく彼が言った。
桜田さんは振り向き、一言言った。
「にへん死んでこい、アホ三山!」
……聞き違いだろうか。彼女は今、三山と言った。三山とは誰か。無論私の想い人だ。昔の。彼も三山という名字なのだろうか。もしくはアホミヤマという名字なのか。
文学棟を出て、少し歩いた所で桜田さんは口を開いた。
「あんたもあんたよ。何してんの? 関わりたくないんじゃなかったの。何ノンキにジュース飲みながらお喋りしてんのよ」
私の思考はこんがらがっていた。どうやら彼は三山で間違いないらしい。そして私が離れたかった三山さんも彼らしい。ならば私が想っていたあの人は誰だと言うのだ。
「あの、桜田さん」私は質問する。
「あの人が三山さんですか?」
「はぁ?」
彼女は呆気に取られている。そりゃそうだろう。私だってそうだ。
「どう見たって三山じゃん。あんただって見たし、話してたじゃん。いくら忘れたくても、もう忘れちゃったなんて事は無いでしょ」
「それはそうですけど……。なんていうか、私が知っている人と違うんです」
桜田さんは顔をしかめた。しかしその顔はすぐにぱっと晴れ渡った。
「ああ、なるほどね。へぇー、うんうん。これは凄いわ」
桜田さんは一人で納得していた。それを訊こうとすると、桜田さんは手を掲げ、ちょっと待ってと言った。
そのまま五メートル程離れ、携帯電話で誰かに電話を掛けた。ここからではよく見えないが、何やら申し訳なさそうに謝り、そして大笑いしているのが見えた。五分程話すと、桜田さんは帰ってきた。何やら怪しい笑みを浮かべている。
「ごめんね、三山と話してた。もう解決したよ」
「何だったんですか。というより今も何が何だか分かんないです」
「まあそうだろうね。んじゃ、手っ取り早く結論から言うよ」
私は息を飲む。彼女は何を言うのか。
「あんたが惚れてた男は三山じゃないよ」
本当に彼女は何を言うのか。
「どうゆうことですか?」私は声を絞り出す。
「確かに比較文化論の授業を三山は受講してるよ。でも出席してるのはあいつじゃない。志村って男。あいつはずっと三山の代返してたの。ついでに言うと彼女もいないわ」
何かが崩れ落ちた。しかしそれは今までと違い、絶望を残すような物では無かった。彼は三山さんじゃなくて、志村さんだった。
ということはどうなるのだ。私はとんだ勘違いの恋に燃えていたのか。今日初めて話した三山さんに恋していた事になってしまうのか。そんな訳は無い筈だ。
混乱していた私に、桜田さんは言った。
「あんたは勘違いしてたけど、その勘違いしてたのは何だと思う?名字だけよ。全然問題ないじゃん」
その言葉に、内側からめらめらと燃え上がる物を感じた。これを私は何か知っている。それはもう遠くに追いやり、捨てようと思っていた気持ち、恋心だ。心臓のエンジンはヒート寸前に動き出し、体中に血が巡るのを感じる。空を見上げれば、見捨てたはずの神々が私に微笑んできている。
私はまだ、失恋していない。
「ねえ」桜田さんが話しかける。
「何でしょうか」
思わず声に力が入る。
「明日暇?」
「暇ですよ!」
「じゃあさ」
桜田さんは、意を決するように言った。
「明日一緒に、ご飯食べない?」




