その2
あかんあかんあかんやばいやばいマジでやばい。この女また俺の方じっと見てる。ほんとやばい、堪忍してくれ。隠してるつもりかよ、バレバレだっての。
左隣の学生に頭を下げ、俺は席に座った。本当はこんな授業に来たくないのだが、俺にはどうして来なければならない事情があった。三山との約束だ。
俺と同じく民俗学を専攻する三山は、水曜日三限のこの時間に、どうしても出席出来ない事情があった。流す程度に聞いていたが、どうやら遠距離恋愛中の彼女に会いに行く日らしく、他に予定が取れないらしかった。それで俺が彼の代わりにこの授業を代返している。
思えばあの時の決断が失敗だった。前期授業が始まって間もない頃に、三山は突然俺を呼びだした。
「志村、話があるんだが」
「なんだ? 金は貸してやれないぞ」
この時の俺は極度の金欠状態だった。前日食べた食事はキャベツ乗せ醤油ごはんで、その前は何も食べてなかったと思う。そのせいで俺は、何も言わず三山が注文してくれたカツとじ定食に有無を言わず齧り付いた。あのカツの味は忘れようもない。感動ではなく、怨恨から忘れようもないのだ。
「いいバイトを紹介してやる。一時間半で三千円の超高額バイトだ。といってもなんら難しい事じゃない」
「何やらす気だ?」口をもごもごさせながら俺は言った。
「授業の代返をお願いしたい。水曜三限、比較文化論の授業だ。お前もうあれ取ってるだろ?」
「あぁ、そうだけど」
「頼むよ、あれ無いと進級出来ないんだ。お前ならテストも受けた事あるし、楽勝だろ?」
三山の言う通り、確かにテストは簡単なものだった。恐らくノートさえきちんと取っていれば優か良は貰えるだろう。しかしあの授業は出席が鬼の所業だった。前もって席は決められるし、授業を一度でもサボると点が一気に崩落する面倒くさい授業だったのだ。
しかし俺は、この三山のバイトを二つ返事で承諾してしまった。三千円も貰えれば何日かは腹ももつ。それと比べれば授業の一つや二つ、お安い物だった。
それから俺は遅刻しない程度に授業に向かい、ノートを取って後はアイポッドで音楽を聴いて授業が終わるのを待っていた。
最初の二、三日は特に問題無かった。しかし、俺は徐々に身に起こる異変に気付いていった。授業中に何をしていても、背中が妙に痒いのだ。
それがあのストーカー女の視線だと気付いたのは、四月最後の授業の時だった。急に催した俺は、トイレに向かうべく席を立った。用を足し、洗面台で手を洗っている時に俺はそれに気付いた。
鏡を見ると、俺以外の誰かが映っている。背後には入口の壁面があり、後ろには誰もいない。しかしそこからちらりと覗く黒髪と、ぎょろりと睨む目玉が映っていた。ぎょっとして振り返ってもそこには誰もいない。ただ、明らかに急いで廊下を走る足音だけが残っていた。
それから教室に戻った後、俺は仰天した。あの時にちらりと見えた髪に飾られたドーナツのようなシュシュを、後ろの席の女が付けている。人違いだろうと言い聞かせて席に着くも、またあの熱い光線のような物が背中に当たる感触がした。それの真相と正体に気付いた時、俺は出したばかりなのに漏らしそうになった。
気にしないようにと授業に集中しても、彼女から送られる熱い眼差しは避けようも無く背を貫き、俺の精神をも貫通させた。
変化が訪れたのは、教授が黒板にアイヌ人の言語と生活をつらつらと書き記した時だった。他の学生と同じようにノートに写していると、何故かあの視線が当たらない。代わりに俺の右腕に生ぬるい感触が当たり、無数の産毛がぴょこんと起立した。俺の右腕はシャープペンを取り、ノートに起こしている。流し目で後ろを見ると、明らかに彼女の頭は右側に傾いていた。
ひょっとしたらやはり俺の勘違いであって、彼女はストーカーでもなんでもない一女学生ではないのだろうか。視力が悪くて前の黒板が見えないから、しかたなく俺の汚いノートに書かれた汚い文字に頼らざるを得ないのではないだろうか。
しかしその希望は瞬間的に塵と砕けた。黒板の字を全てノートに書き起こしたら、彼女の視線はまた俺の背筋を貫いた。恐ろしい事に、先程よりも首筋に近い部分に当たっている気がする。背にゴミでも付いているのかと思ったが、何も付いていない。ついでにその時に彼女の机の上を見ると、ノートも何も置いてなかった。
あかん、これはマジだ。彼女は俺を「観察」しているのだ。
それからというもの、俺は水曜日三限を向かえるのが億劫だった。別に何かしらの危害を加えられる訳ではないが、やはり言いようも無い気味の悪さが身を包む。席は変えようにも変えられない。授業をサボれば単位に響く。なによりももう俺の生活は、三山から与えられる三千円を中心に廻っているようなものだった。
おのれ三山め、これで三千円は安すぎる。明日にも値上げを要求しなければと、その時俺は思った。
戻って現在。授業は今日で六回目になるだろう。やはり彼女は今日もいた。一回くらい欠席してくれないだろうか。本当に頼むから。
授業が始まると俺は一字一句逃さずノートを取り、残りの授業はアイポッドから流れる音楽に集中した。騒音に近い音量で聴いているから、隣の学生には迷惑をかけているかもしれない。
ノートを取る時は、なるべくゆったりと書いた。そうすることで彼女の視線が俺ではなく、俺の右腕に集中するからだ。肉を切らせて骨を断つ。本当は肉も惜しいが、もはや何かを犠牲にしなくてはいけないのが現状だ。しかし何故授業一つで身を切られなければならないのか。
あぁ、早く教室を出たい。ただでさえ退屈この上ない授業なのに、そこにストーカー付きとなったら目も当てられない。早く教室を出て食堂に行きたい。一時でもいいから安らぎが欲しい。今日の日替わり定食はメンチカツ定食だった筈だ。早く齧り付きたいものだ。
授業終了まで残り二十分。あぁ、時間よ早まれ、授業よ終われ。