その19
小走りで階段を下りて棟を出る。そう見せかけて私は一階の女子トイレに逃げ込んだ。幸いトイレには誰もおらず、私は一番奥の個室に入ってひっそりと泣いた。
正直に言って、教室で三山さんを見つけた時、私は自分の胸が高鳴るのを感じていた。忘れようとしてもそう簡単に切り変える事など出来やしない。そして彼からの熱い視線を感じた時、私は自分もこんな事を毎週続けていたのかと自己嫌悪に陥った。
小説の世界に入り込もうにも、彼からの熱線が背を貫いた。それはまるで、私を逃さない為に睨む獣のような視線だった。どれだけ空想の世界に踏み入れようとも、三山さんの視線は私を掴み取り、現実の世界へと引っ張っていく。
彼が何を考えているかは分からないが、少なくとも好意では無いのは確かだった。復讐でもする気なのだろうか。
涙を止めようとすると、余計に涙が溢れて止まらなくなる。楽しい事を考えようにも三山さんの事が頭に浮かび、悲しくなっていく。無理に笑顔を作ろうにも、寒さで私の頬はカチカチに固まり、口角を上げる事が出来ない。
十分程泣いていただろうか。ドアが開く音がして、誰かがトイレに入ってきた。饒舌に喋る声と、それに呼応するかのような笑い声が聞こえてきた。私は涙を堪え、トイレットペーパーで目元を拭う。見える筈も無いのに、何故か見られるような気がした。
笑う女性達はトイレの個室には入ってこなかった。声から察するに、洗面所で化粧でもしているのだろう。
手鏡を持っていないので自分の顔がどうなっているかは分からないが、少なくとも良い顔をしていないのは確かだった。その顔を提げてあの空気の中に行くのは避けたい。私は小さく呼吸し、頭を横壁にもたれさせた。
それから四、五分経ってから、笑う彼女達は外へと出ていった。ドアが閉じきる音を確認すると、私は個室を出て、洗面所で顔を洗った。
見るも無残な顔だ。死体の方がまだ愛嬌があるのではとすら思えてくる。先程よりは落ち着いてはいたが、どれだけ冷たい水を浴びようとも目の赤みは消えず、鼻水が止まる事も無なかった。
だからといって、ここでいつまでも泣いている訳にはいかない。そう思って涙と鼻水の後を洗い落とした私は、トイレを出た。
冷たい風が顔に突き刺さる。厚着をしていたので体は大丈夫だが、顔や手は寒くて仕方ない。校門へと流れていく生徒の群れも、各々寒そうに身震いをしたり、手を擦り合わせている。そういった連中は皆夏服を着ていた。
私は顔を何度も腕で拭ってからその群れの中に飛び込み、駅へと向かった。
電車に揺られながら考える。やっぱり私は彼が好きなのだ。彼女がいようが嫌われていようが、その思いは簡単には消えない。
このままでは埒があかない。そう思った私は、桜田さんに助けを求める事にした。
自分の力で解決出来ないのは悔しいが、かといって今の私には何も出来そうにない。携帯電話の電話帳から桜田さんのアドレスを選び、一言「助けてください」とメールする。電話では泣き出しそうで怖かった。メールはすぐに返ってきた。
「どうしたの?」そう一言書かれていた。
私は彼への気持ちと自分の思いを詳細に説明し、「送信」のボタンを押した。桜田さんからのメールは素早く、携帯電話を閉じると同時に携帯電話が震えた。一体彼女の指の動きはどうなっているのだろう。
「そういうのは自分でするのが一番よ。私が色々するのは出来るけど、何も関係ない他人に自分の恋愛終わらせるのって嫌じゃない?」
桜田さんの意見は正しかった。しかし同時に否定したくもなった。私と他の恋する乙女を一緒にしないで欲しい。他の人達はただ恋しているだけだが、私は違う。私はストーカーなのだ。
今やっと分かった。私はストーカーだったのだ。
同時に分かった。彼は私の正体を知っていた。しかしどれだけ私が追い続けても、彼は私を避ける事をしなかった。彼からしたら、私の存在は酷く苦しい物だったのだろう。しかし何をするでもなく、私を自由にさせた。
私は彼に依存していたのだ。何もしないからと私は彼に甘え続けていた。ずるずると彼に縋り付こうとし、悲劇から救い出してくれる王子様かのように彼を美化させた。
なんてくだらない恋なのだろう。乙女の恥晒しどころではない。しかしそれでも、私の恋心は本物だった。
私は「それでもいいんです」と打ち、送信ボタンを押した。先程とは違い、桜田さんからの返信は時間がかかった。といってもせいぜい十数秒の違いだが、私にはそれが大きく感じた。
電話を開き、メールを確認する。桜田さんからの返信は「わかった」の一言だけだった。それを確認すると私は電話を閉じ、鞄に放り込んだ。
人に自分の恋愛の尻拭いをさせるなど、私は最低だ。しかしこれで解決はする。これで彼と私は何でもないただの他人となる。しばらくは私も引きずるだろう。しかしそれも時間の問題だ。時がきっと解決してくれる。そう思う事にした。
すっと立ち上がり、開閉ドアの前に立つ。先程よりも幾分かマシな顔つきだ。しっかりと人の形を保ち、生気も見える。
「私は大丈夫」
そう自分に言い聞かせるつもりが、自然と声に出して言っていた。




