その18
逃げる事なんて許さない。俺のこの気持ちは、お前には到底分らないだろう。
授業が始まってからまだ五分と経っていない。俺は早々に授業を捨て、彼女の背中を凝視していた。出席表にはマルを付けたのだから、どれだけ授業態度が悪くとも三山からの文句は無いだろう。元々彼も授業態度はよくないだろうし、そもそもきちんと出席してるかも分からない。
見つめる小さな背中は時々小刻みに揺れ、何かから逃れているようにも見えた。
俺は苦笑した。その彼女の姿は、まさしく俺だった。何かから逃げたいのはきっと俺の視線だろう。過去の男を煩わしく思っているのか照れているのかは知らないが、少なくとも良い気はしないだろう。
現に彼女は本を読んでいる。これは俺が音楽の世界に逃げるように、彼女も本の世界に逃げているのだろう。
だが逃がすものか。俺のこの気持ちを彼女も知るべきだ。辛くも苦しくも痛くも悲しくも無い。ただただ気持ち悪いこの感じを、彼女も知るべきなのだ。
そして俺も知りたいのだ。彼女は何故俺が好きで、どこに興味を持ったのかを。俺が持っている情報は「ミルクを混ぜた飲み物が好きで、妙にマメな所のある性格をした環境学部のストーカー女子学生」という事だけしかない。これではまるで足りない。俺はもっと彼女の事を知りたい。もっと知った上で、もっと嫌いになりたいのだ。
何分間彼女を凝視していただろうか。突然教授が強く教卓を叩き、教室中がしんと静まった。全ての生徒が顔を上げ、教授を凝視する。思わず俺も彼女も顔を上げる。教授の顔は彼女以上にふるふると震えていた。
言うまでも無く教授は怒っていた。というよりも激しくキレていた。何故キレているのかは俺には分からない。おそらく彼女も分からないだろう。もしかしたら俺が知らないだけで、元々この教授はキレやすい人なのかもしれない。
そんな事を考えた俺は馬鹿だった。
「お前ら受ける気ないなら出てけ、出席だけ取れれば満足なんだろ。でもなあ、授業の邪魔だけはするな!」
どうやら生徒の誰かが授業の邪魔をしたらしい。俺は彼女を見つめ続けていて、邪魔をする生徒には気付かなかった。彼女もまた、本の世界に逃げ込んでいて気付いていないようだった。
しかし本当に気付いていないのは我々二人だった。教室中の生徒達は、俺と彼女をちらちらと見ている。ふと三山が昔言っていた言葉を思い出す。
「語学系は楽だぞ。アットホームな空気で、適当にうんうん頷いとけば単位が貰える」
どうやら我々は、そのホームを乱してしまったらしい。落ち着いている俺とは違い、目の前の彼女は妙にあたふたしている。恐らくこういった事態に慣れていないのだろう。
しかし俺は落ち着いていた。三山の態度の悪さのどさくさに怒鳴られて、ついでに追い出される事が多々あったからだ。こんな時に落ち着いていられるのは三山のおかげだ。ありがとう三山。そして死ね三山。
彼女は今にも泣きだしそうな様子だった。教授は早く授業に戻りたいようで、我々の退室をそれとなく促している。
彼女は観念したようで、教科書類を鞄に突っ込み、一礼して外に出た。俺はそれを見届けてから、そそくさと退出した。
めでたくホームレスとなった我々は、副手に「今日は帰りなさい」と言われて棟を出た。目の前を歩く彼女の姿は、いつもの数倍は小さく見える。さすがにここまで哀れな姿を見ると、先程の熱意も飛んで行ってしまう。
元々言えば、彼女が逃げる原因を作ったのは俺なのだ。俺が彼女と同じ授業を受け、彼女に妙な視線を送り、彼女を嫌な気分にさせたのが問題なのだ。これではまるでストーカーだ。
しかしこれはチャンスでもあった。形はどうであれ我々は二人きりだ。色々と話すにはもってこいではないか。俺は彼女の肩を叩き、自分の方に振り向かせる。
「なあ……」
言葉に詰まってしまった。振り向いた彼女の目が潤んでいたからだ。それほどまでに彼女は授業を追い出されたのが悲しかったのか。ならば比較文化論でも俺など見ずに、授業に集中すればいい筈だ。一体彼女は、何が悲しくて泣いているのだろう。
すぅっと小さく息を吸い、彼女は言った。
「もう、私に構わないでください」
「え、あぁ、うん」
思わず間の抜けた返事をする。彼女はそう言うと小走りで去っていった。
呆然としていた。彼女と関わってから、俺は何回呆然とするのだろう。私に構うなとはなんだ? 俺がいつ彼女に構ったのだ。こうして口を利くのも初めてじゃないか。
まるで振られたような気分だった。突き放され、目の前に分厚い一枚板が立てられたような心地だ。こんなのはちっともクリーンじゃない。でも彼女にとってはすっきりとしたものなのかもしれない。俺が言うよりも先に、彼女は俺が言いたい事を言ってしまった。それに対して俺は、「うん」と言ってしまった。その事実は変えられない。
これで終わりなのか。俺と彼女の関係は、これで終わりでいいのだろうか?




