その17
私は初めて三山さんを無視した。別に意地悪をしたかった訳ではない。そんなことをしても、彼の心はもう掴めないのは知っていた。私は私なりに進まなければいけない、そう思っただけだ。その為にも出来る事は、彼に迷惑をかけない為に彼から離れる事だった。
正直言って彼に出会った時、私は大いに驚いた。文学部の彼が環境学部の棟に現れるとは、今まで予想もしていなかった事態だ。
今までの私ならば感動のあまり卒倒しかねない喜びだったが、今の私にはそれも偶然の一言で片づけられる。きっと環境学部の友人と待ち合わせでもしていたのだろう。例のへんてこ男かもしれない。
私は学部の友人と別れ、E棟へと向かった。次の授業は「仏語Ⅰ」だ。生徒数もそれほど多くない授業なので、彼がいない事は知っていた。今の私には彼の姿は私の体を溶かす毒でしかない。私は一刻も早く人の形に戻りたいのだ。
教室に入ると同時に、教授は授業の始まりを告げた。まだ授業開始の時間まで少しあったが、私が現れたことで全員揃ったのだろう。
既に席に着いた生徒達の恨めしい視線が、私の背中に突き刺さる。彼らからすれば、少しでも授業が始まるのが遅い方がいいのだろう。
馬鹿な奴らめ。お前らは何の為に高い金を払って大学に来ているのだ。それは勉強する為だ。断じて遊ぶ為や恋をする為なんかではない。
教卓に置かれた出席表にペケを付け、自分の席に着く。それと同時に教授は授業の始まりを告げた。鞄から教科書を出す時に、私はそれに気付いた。背中が妙にかゆいのだ。
そのかゆみの正体は人の視線だった。人の視線とはこんなにも生温かいものなのか。そしてその視線を送る存在は、私の後ろの席に着いていた三山さんだった。
「三山さん!」と思うと同時にその想いを振り払い、鞄から『朝顔のたね』を取り出す。何故彼がここにいるのかは分からない。彼が座る席には違う人がいた筈だ。代返でも頼まれたというのか。よりにもよって何でこんな大事な時期に。
何故彼は私の気持ちに気付いてくれないのだ。愛しい気持ちも嫌いになりたい気持ちも、私にとってはあなたに受信して欲しい感情なのに。何故私があなたから離れようとしている時に、あなたは私の前に現れるの。
授業が始まってから約二分。私は授業を受けるのを諦め、『朝顔のたね』の世界に逃げ込んだ。物語は終盤にさしかかっている。私と同じだ。意中の彼が、ついに彼女の告白への答えを出そうとしていた。
そしてそこから彼の視点の物語は始まる。




