その16
一体何を話すべきなのか。それだけを俺は悩んでいた。あの日から俺の頭の片隅には、いつも彼女がいた。全く喜ばしくない事情で。
そして俺は一体何を考えているのか。先程まで彼女は俺の目の前にいた。目だって合っていた。だが俺は何も言わず、その場を去った。いや俺が去ったのではなく、彼女が先に去って俺は一人ぽつんと取り残されたのだ。
彼女は俺をちらと見て、しれっとした様子で立ち去った。今までは俺を見れば、話しかけずともこくりと一礼はした筈だ。
朝起きて今日は彼女に出会えると思った時、俺は心の底からほっとした。これで解放される。彼女に出会い、面と向かって彼女の行いをやんわりと否定し、前回の自分の行いを謝罪すればそれで全てが終わる。実にクリーンな方法だ。浜田さんも満足するだろう。終わらなければ「大学側に相談する」とでも言えば止まるだろう。そう思っていた。
ところがどっこい現実はそうはいかなかった。まさか彼女が俺を無視するとは思わなかったのだ。誤算どころではない。わざわざ学自会に所属する情報通の桜田さんに昼食を御馳走し、彼女の授業を訊き出して待ち伏せした自分が馬鹿みたいだ。
最悪なのは次の「仏語Ⅰ」が彼女と同じという事だ。桜田さんから三山も同じ授業を受講していると知った俺は、すぐさま彼に代返させて欲しいとメールを送った。三山は間髪入れず「喜んで!」と返信してきた。
目的は二つ。彼女と和解した後、突然の俺の登場にも普通に対応できるか。そして先程の出会いに失敗した場合の保険だった。
先程のコンタクトが成功していたならば、俺は彼女がいる空間で久方ぶりに安心して授業を受ける事が出来たのだ。彼女が俺に変な視線を送る事も無く、俺が爆音の世界に逃走する事もない。そして彼女は俺に何もせず、俺も彼女を深追いせずに互いを背景の一部にし合う筈だった。
こんな筈ではなかった。彼女が俺に気付いていない筈がない。
ひょっとして彼女は俺に飽きてしまったのだろうか。別の矛先を見つけたのだろうか。矛先になった相手には気の毒だが、俺からすればそれは安心するべき事態なのだ。
だのにこの気持ちは何だ。この裏切られたような気持ちは何なのだ。何の為にこんなくだらない努力をしたのか。この手に持ったコーヒーミルクを、俺はどうしたらいいのか。
思わずコーヒーミルクに力を入れる。ひんやりとしたボトルは俺の掌を超え、体中を巡っていく。しかし俺の心はふつふつと熱くなり、燃えたぎっていた。
俺は決心した。次の授業で自分から話しかけようと。散々俺を悩ませておいて、勝手に逃げる事など許しはしない。
何故自分が怒っているかも、俺には分からなかった。




