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うさぎと煙草とストーカー  作者: 田中アマノリ
15/25

その15

 ドアが開くと、風呂で一浴びしたようにびしょ濡れの人々が私を迎えた。私はウジ虫のように人の波を縫い、改札を出た。


 雨は強さを増しており、刺すような寒さが私の肌を服ごと貫いていく。再度私は後悔した。今日の私は傘を忘れただけでなく、薄着もしているのだ。やはり天気予報はしっかりと目に通しとくべきなのだろう。


 仕方なくコンビニで傘を買おうと思ったが、財布の中身が私の考えを断固拒否した。桜田さんと食べる昼食代分しか用意してなかった財布には、今は微々たる額しか入っていなかったのだ。


 諦めて鞄の中を漁るも、雨を凌げそうな物は何も入っていない。この雨量の中薄着で傘無しで家に向かえば、腹を下すだけでは済まないだろう。


 もやもやしながら右往左往していると、改札横のコインロッカーに、みすぼらしいおんぼろの傘が立て掛けてあるのに気がついた。辺りには誰もいないのでおそらく忘れ物だろう。手に取って見てみると、見た目は古いが使えない訳ではなかった。


 私はこの傘を拝借する事にした。心が痛まない訳ではないが、このままここにあっても駅員が回収するか捨てるだけだろう。もしかしたら最初から捨ててあったのかもしれない。ならば問題など無い、むしろ処分する手間を省いたのだ。良き行いなのだ。そう言い訳して私は駅を出た。


 家の鍵を開け、中に入る。「ただいま」と言っても返事はない。この時間なら母はまだ仕事に出かけているのだろう。私は自分の部屋に入り、崩れ落ちるようにベッドに身を投げた。


 おんぼろの傘は、私を雨から完璧に遮断する事は出来なかった。体の所々が濡れていて、それらがベッドに染み込んでいく。しかしそれが気にならない程に私の心は落ち込んでいた。


 私は鞄の中からアイポッドを探した。気を紛らわしたかったのだ。


 探していると、教科書達に潰された『朝顔のたね』が目に入った。私と同じく雨露に濡れ、ページ全体が波打っている。読めない事は無いだろうが、読む気にはなれない惨めな姿だ。


 ふと、ベッドの横に置かれたスタンドミラーを見ると、私の姿もまた雨に濡れて惨めな姿だった。鏡に映る私は、だらけきった姿に雨が髪にも服にも染み込んで、死んだ目をした浮浪者のようだった。


 私はアイポッドを取り出すのをやめ、風呂に入るべく部屋を出た。服を着替えて体の汚れも落とせば、少しは気が楽になるかもしれない。そうとでも思わなければ、気を楽にしようと思う気すら起きなくなる。


 たったと階段を下りて脱衣所で服を脱ぎ、洗濯物かごに叩きつけるように突っ込む。風呂場はしんみりとしていて、微かな雨の音が聞こえる。その空間は私の気持ちをもしんみりとさせた。何となく「あっ」と呟いてみると、私の声は小さく反響した。


 私は本日三度目の後悔をした。浴槽の蓋を開けると、中は水滴も無い空の浴槽だった。恐らく母が洗濯にでも使ったのだろう。


 シャワーだけで済まそうかと思ったが、先程まで雨に濡れていたのにシャワーでこの気持ちが晴れる訳もない。私は迷った挙句、風呂を沸かす事にした。


 裸のまま部屋に戻り、ぐしょぐしょの『朝顔のたね』を取り出して再度風呂場に向かう。風呂が沸くまでの間、本でも読んで時間を潰そうと思ったのだ。気が滅入って読む気になれなくても、時間が余っているならば別だ。惨めな者同士、手を取り合うべきなのだ。


 ページ全体の三分の二程は消費し、物語は後半だ。彼に告白するも返事を貰えなかった事に悩む彼女は心を痛め、なんと病床に伏せてしまった。なんという展開だ。


 布団の中で彼女は彼の幻影を見る。病的なまでに美化された想い人の彼は彼女の手を取り、これまた美しい川を渡ろうとしている。


 そこで彼女は目が覚めた。そして呟いた。


「あぁ、いいところだったのに!」


 思わず私は「いや渡っちゃだめでしょ」と呟く。こんな話に人気が出て映画化されるとは、世の中の女性はそれほどまでに愛に飢えているのだろうか。もしくはそれ程までに愛せる人が欲しいのだろうか。


 不思議と私の心は落ち着いていた。あれ程までに私を夢中にさせ、メロメロになった『朝顔のたね』は、今は頭が沸騰した女の物語にしか思えなかった。


 そうか、これが恋する乙女なのか。そして私とは、こんなに痛々しい女だったのか。私が物語中の彼女を痛々しく思うように、私もまた誰かにそう思われていたのか。


 しかしよくよく考えれば、私は自分の恋を誰かに語ってはいない。桜田さんにも今日初めて話したのだ。ならば私を憐れむ人もいない。


 それならば物語の彼女にはどうだろうか。今まではそんな人はいなかった。それは私もだ。私とどこか似た彼女ならば、誰かいるのではないだろうか。私は彼女を思う人を知るべく、ページをめくった。


 その時風呂場からピピピと音が鳴った。風呂が沸いたのだ。


「あぁ、いいところだったのに!」


 私は思わず叫んだ。

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