その11
その日私は授業を取っていなかったが、同じ学部の桜田さんにご飯を誘われて大学の構内にいた。私自身は小説の続きを読んだり音楽を聴いたりと忙しい身ではあったが、桜田さんの情報網を頼りにしていた事もあり、彼女の誘いを受けることにした。
桜田さんは学生自治会という組織に身を置いており、数多の学生との交流があった。顔の広さでは彼女に並ぶ者はいないだろう。無論私の本願は三山さんその人であり、彼女に昼食を御馳走する約束と同時に、彼の情報提供を求めた。
私はF棟にある本屋の中で、旅行雑誌を読んでいた。行った事の無いオーストラリアの地に想いを馳せながら時計を見ると、時刻は十四時四十三分を指しており、三限の授業の終了まであと十分もなかった。
私は雑誌を元のラックに戻し、本屋を出た。
外は授業を終えた学生でごった返しており、その光景は地獄の底を思わせた。彼女が受講している「地理情報学」はC棟で行われており、F棟とは目と鼻の先だ。私は人の波をミミズのように避け、自動販売機でココアミルクを買ってC棟へと向かった。
C棟前の喫煙所で三山さんを見つけた時、私は持っていたココアミルクを落としかけた。彼自身は何も変わっていない。
問題はその隣だ。隣にいた人物は前のへんてこ男ではなく、学生らしき身分の美女だった。彼はその美女と楽しそうに談笑している。
あまりの衝撃に私は気配を消し忘れ、彼に見つかってしまった。彼は私を見るなり顔をしかめ、謎の美女を連れて棟へと逃げるように入って行った。
というよりもあれは逃げていたのだと思う。がやがやと混雑する中で、三山さんと目が合ったのは私だけだった。
糸くずのように脳内はこんがらがって茫然としていると、誰かに肩を叩かれた。桜田さんだ。
「授業終わったけど、どうしたの? ぼうっとして」
ココアミルクから得た水分は文字通り露と消え、カラカラに枯れ切った声を精一杯に絞りだして聞く。本当は食事をした後に聞くつもりだったが、正直それどころじゃない。
「文学部三年の三山さんって知っていますか?」
「三山って、志村とよくつるんでる奴? 知ってるけど何?」
「彼って彼女いますか?」
暗闇の中にあった微かな光には、神々しく「いない」と書かれていた。私はそれを掴もうと必死にもがき、手を伸ばす。
しかし桜田さんの発した言葉は、その光を静かに閉じた。
「あいつならいるよ。他校に」
愕然とした。頭の中では思考が最早取り返しがつかないほどに絡まり合い、私はその場に座り込みたかった。しかし座る事が出来ない。座るという行動すらも、絡まり合った思考からは取り出す事が出来なかった。
数々の奇跡は何だったのか。あれだけの奇跡を全て偶然だと片付けろと言うのか。神様は私に味方したのではなかったのか?
「それより食堂行こうよ。お腹すいちゃった」
桜田さんは人差し指を突き出し、食堂を指した。茫然とした私は何を言うでもなく桜田さんに腕を取られ、散歩を拒否する犬のようにずるずると引きずられて行った。
食堂までの道中をどのように進んだか覚えていない。頭の中では色々な想いがおはじきのようにぶつかり合い、私の脳を強く揺さぶっていた。
券売機の前で桜田さんに五百円玉を渡すと、桜田さんはきっかり五百円のスペシャル定食のボタンを押した。私は一番安い焼き魚定食のボタンを押す。とてもじゃないがボリュームのある物を食べる気にはなれない。
桜田さんに導かれるまま席に座り、導かれるまま食券をおばちゃんに渡した。彼女は机に置かれたピッチャーを取ってコップに水を注ぎ、私の前へ置いた。
「三山の事好きだったの?」
コップを指でなぞりながら、彼女は言った。
「今のあんたなら、そのコップの水でも入水自殺出来そうね」
「いいじゃないですか。別に」
「駄目押しするけど、勝ち目は無いね。あいつもの凄く彼女好きだし」
まさしく駄目押しだ。ほんの少しでも綻びが無いかと思った自分が空しい。
「そもそも何であいつの事好きになったの?」
「自分でも分かりません」
「じゃあ諦めなさいな。その程度の恋なんて掃いて捨てるほどある物よ」
あっさりと彼女は言った。同時に、彼女の言う通りかもしれないとも思えた。元々私が一方的に彼を追い、一方的に好きになっただけなのだ。それは彼に恋人がいない上で成り立っていたか細い吊り橋であり、彼に好きな人がいればすぐに引き千切れる蜘蛛の糸でもあったのだ。
ふと先程の彼の態度を思い出す。私は彼の事をずっと見ていた。彼を追い続け、彼の事をよく知ろうとした。もしや彼は、私の行動に感づいていたのだろうか。どれだけ私が想っていても、彼にとってはそれらの行為は迷惑以外の何物でもなかったのかもしれない。何より彼女がいる身分なのだ。迷惑を感じて当然だろう。
「お待ちどう」という声と共に、おばちゃんが二つの御膳を持ってきた。桜田さんの顔が綻ぶのが見える。
私の頭の中に、一つの可能性が浮かび上がる。もしや私は恋する乙女でもなんでもない、ただの迷惑なストーカーだったのではないか。
焼き魚と目を合わせながら、私は自問した。




