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うさぎと煙草とストーカー  作者: 田中アマノリ
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その1

「まもなく、千種(ちくさ)、千種」


 アナウンスの無機質な声が車内に広がる。あともう少しで、大学のある駅に着く。そうは分かっていても、私は胸の中にあるイライラとドキドキを解消出来そうになかった。


 電車のドアに背をもたれ、横に流れていく景色を眺めていると、聞き覚えのある歌声が流れてきた。彼の好きな歌だ。もしやと思って車内を見渡すと、音の正体は隣にもたれていたサラリーマンのイヤホンから聞こえてきただけだった。私は少しの落胆と、沢山のサラリーマンへの憎しみと共にまた景色の方へと目をやった。


 昼の時間帯にしては、車内は空いている。この電車には私と同じ大学の学生も乗っている筈だが、どうもそれらしい人がいない。四月には鱒寿司の如くぎゅうぎゅう詰めになる程に人がいたというのに。やはり毎年恒例の「ふるい」にかけられたのだろう。


 五月にもなると、夢見がちな初々しい学生達に陰がかかり、五月病と現実とのギャップという二つの力にふるいにかけられる。それらを耐え忍んで、または折り合いを付けた者が学校に来る。これにかかる者達を、私は「四月バカ」と呼んでいる。脚色された嘘八百の煌びやかな大学広報に騙された馬鹿者達だ。考えが甘いのだ。全ての大学が、楽しくて自由で充実したカリキュラムな訳がない。


 しかし四月バカ達とは違い、私には楽しみがあった。毎週水曜日三限目の「比較文化論」。これには彼こと三山さんが出席している。彼も私も欠席した事は無い。

 

 特に私はする訳にいかなかった。私は常に彼の真後ろの席に座り、授業を聴講している。彼は真面目な人で、教授が黒板に書いた字を一字一句逃さずノートに書き写している。私は彼の指先から踊るように流れ出る文字を、一字一句逃さず眺めているのだ。これは崇高な趣味であって、元々授業の要点を掴める私にノートなど必要ない。


 どうやら彼も私に気を使っているようで、ノートを書く時は私に見やすいように少しずつずれてくれるのだ。私はその度に、彼の優しさに胸を痛める。


 あぁ三山さん。電車が駅に着くのが待ち遠しくて、同時に煩わしい。早く学校に行ってあなたを待ちたいのに、何故私が乗る時間帯は各駅停車便しかないのだろう。もし急行便に乗る事が出来たなら、私はいつもより十分は早く教室に着く事が出来るというのに。


「まもなく、鶴舞(つるまい)、鶴舞。お降りの際に御忘れ物など無いようご注意ください」


アナウンスと共に、電車が減速し出した。あと二駅、もう少しの辛抱だ。頑張れ私!


駅に着くと、私の他にちらほらと人が降りた。皆が皆うつつを抜かした大学生といった感じで、四、五人で談笑している人らもいる。その中に三山さんはいないかと思い捜したが、彼の姿はどこにもなかった。


 しかしそれは予想の範囲内だ。三山さんはいつも授業開始ギリギリで現れる。きっと今回も遅刻ギリギリの電車に乗って、遅刻ギリギリで入ってくるのだろう。私はそう納得し、人の流れに沿って駅を出た。


 駅の時計を見ると、授業開始まで四十分はあった。私はそっと人の列から離れ、駅裏にあるうどん屋「なごやん」に寄った。これも私の水曜日の日課だ。


 店の戸を開けると、ちりんちりんという軽やかな鈴の音と共に、「いらっしゃい!」という店主の声が聞こえた。私は券売機の前に立ち、小銭を入れて「きつねうどん」と「かきあげプラス」のボタンを押した。

 ここでうどんを食べ、学校に向かって教室に着く頃には、大体授業十分前くらいだ。こうして私は腹を満たし、授業の準備を着々と行い、残りの時間は彼を待つ時間に当てるのだ。これは遅くても早くてもいけない。


 出てきた食券を店主に渡し、カウンターの一番端っこの席に腰をかける。そうして私はうどんが出来るまでの間、彼と受ける今日の授業を思い浮かべて悶々とする。計算すると一日に大体二、三時間くらいは悶々しているだろう。

 

 妄想に飽きると残り時間は本を読む事にしている。私は昨日買った小説を読むことにした。『朝顔のたね』という最近映画化した恋愛小説で、店頭に並んでいるのをなんとなく買った小説なのだが、ヒロインの女の子の頑張り具合がなんとも可愛らしくて、つい自分と重ねて読み続けてしまう。彼女には是非ともハッピーエンドを迎えて欲しいものだ。


 店主の「おまち!」という声と共に、私は小説から顔を上げた。ふんわりとした湯気に絡まるように、かき揚げの乗ったうどんが私の前にある。ここのうどんはいつ見ても美味しそうだ。


 私は箸を取り、小さなかき揚げをぱくりと頬張った。口に入れた瞬間ジューシーな油が染み出てきて、私の口内が過度に唾液を分泌する。要するに美味しい。口内にかき揚げの風味が残っている内に、私はうどんを啜った。これも美味しい。顔を上げると、店主が私の顔を見て笑っていた。そんなに私の食べる姿が面白いのだろうか。


 かき揚げを平らげた私は、次に油揚げに箸を伸ばした。うどんの汁を吸い込んだ揚げは、私に見せつけるかのように光沢を放っている。私はそれに応じるべく、揚げを口の中に放り込んだ。これもまた美味しい。


 かき揚げを食べ、油揚げを食べ、うどんを啜り、汁を飲み干す頃には、時計は予定通りの時間を示していた。私は店主に「ごちそうさま」と言い、店を出て大学を目指した。


 大学までの道程をさほど急がず、のびのびと歩く。むやみやたらに急ぐと、妙な時間に到着してしまうのを私は知っているからだ。そのせいで私は、授業の終わっていない教室の前で、一人細々と携帯電話をいじくるはめとなった。それが先週の私だ。


 大学に着くと、購買でイチゴミルクのパックを買って教室に向かった。これを飲みながら校舎に向かうと、丁度飲み終えた頃に教室に着き、二歩、三歩歩いたところのゴミ箱に捨てられる。抜かりはない、何もかもが完璧だ。思わず拳を固く握りしめる。


 教室にはちらほらと学生がいた。このF‐25教室は、授業が始まる前も後もうるさい教室だ。

入ってすぐの席には、ちゃらちゃらとした茶髪や金髪の男女グループに占領され、彼らが音量の八割を占める。中程の席には、どこにでもいるような大学生がいる。彼らで一・五割。前の席には孤高を愛する非常に勉強熱心な学生が多い。例え連れがいても音量は気にする程でもない。授業中も静かなものだ。〇・五割。


 私は前から四番目、右横から二番目の席に腰掛けた。ここが私のベストポジションであり、彼を迎える悠久の花園だ。ここで私は三山さんが来るのを待ちわび、授業中は彼の一挙一動に心躍らせるのだ。


 黒板の上に掛けられた時計を見ると、時間は十三時十五分を指している。授業開始五分前。彼が現れるまでおよそ三分といったところだろうか。


 気の早い教授が出席を取り始めた。つらつらと名前が呼ばれる中、三山さんの名前が呼ばれると、三山さんは「はい」という返事と共に教室に入ってきた。彼は凛とした歩き方で私の方に向かってくる。


 あぁ、たまらない。彼は私の前の席まで来ると、左隣の学生に頭を下げてそこに座った。いつも礼儀正しい彼は、やっぱり素敵だ。

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