彼への楔
少女は、虫を殺すのが好きだった。
羽をもぎ、脚をもぎ、頭をもぎ、地面の上でのたうち回る虫を見るのが好きだった。
どこをどうすれば死んでしまうのか。何をすれば死ぬのか。それを探すのが大好きだった。
飛んでいる虫に枝を突き刺してみよう。
その状態でどのくらい生きていられるだろうか。
水の中に沈めてみよう。
どのくらい時間を掛ければ死ぬのか見てみよう。
虫は、思っていたよりも早く死んでしまった。
呼吸と言うのは、生きることに必要不可欠なことなのだ。
彼女は思う。
――――じゃあ他の動物はどのくらい息をせずに生きていられるだろうか?
犬は?
蛇は?
馬は?
鳥は?
――――人間は?
無感情に、無表情に。
娯楽なぞない田舎の村で、少女はそんなことをして毎日を過ごしていた。
ある日、母が一人の少年を連れ帰ってきた。
母は「拾った」と言う。
少年は全身がずぶ濡れで、顔は青白く、今にも死んでしまいそうだった。
思わず、「殺していいの?」と少女は問うた。
母は苦笑いを浮かべながら「ダメだ。召使にするんだから」と拒否した。
少女は不満そうに頬をぷっくり膨らませた。
母はそんな少女を慈しみながら言葉を続けた。
「私は眼がこんなだから、人並みのことが人並みにできないんだ。だから手助けが欲しいと思っていてね」
「わたしがいるよ?」
「娘を召使扱いなどできようものか」
母は、眼球のない左目に触れながら笑って言った。
「幸い役には立っているようだし、文句はないのだがね。でもやっぱり不自由だ」
隻眼の母は、一つしかない赤眼を少年に向ける。
「これには左目の代わりになってもらおう。なに、どうせ死ぬはずだったんだ。文句はあるまいよ。
不幸な人生をまだほんの少し楽しめるのだからね」
「なにか見たの?」
「うん、いや大したことは見てないよ」
母そう言って、心の底から楽しそうに笑った。
何を笑っているのか、少女は不思議に思った。
母は笑みを張り付けたまま答えた。
「なに。あれもやはり女なのだと思ってね」
女と言うのが誰のことを言っているのか、少女には皆目見当が付かない。
けれど、母がこうまで機嫌良さそうにしているのは久しぶりのことだったので、「まあいいか」と思うことにした。
どうせ、召使が一人増えるだけだ。
その日から、少年が目を覚まして体調が万全になるまで、少年の身の回りの世話は少女が行った。
最初は母がやるつもりだったようだが、少女が人間観察のついでにやると言って、それがそのまま押し通された。
身体を拭いたり、流動食を無理やり流し込んだりする合間に、少女は少年の身体を入念に眺めた。
男の身体は、持ち前の身体との違いを楽しめて、少女にとっては暇つぶしに丁度いい玩具であった。
「う……」
「あ」
その玩具も、少年が意識を覚ましたことで少し勝手が変わってしまった。
起きている少年の身体を眺めようとすると、少年自身が嫌がって、上手いこといかない。
仕方ないから、殴るなり何なりして無理やり意識を奪うことになる。
そうなると、当然のことながら少年は文句タラタラである。
「おまえ馬鹿じゃないの」
「ばーか」
被害者と加害者のやりとりは、いつもそんな感じだった。
少年は名前をユーロと言った。
家名はなく、ただのユーロだ。
「ユーロユーロ」
何となく、少女は何回も繰り返し呼んでみた。
「ユーロユーロ。ユーロ、ユーロ、ユーロ。ユーロユーロユーロユーロユーロユーロユーロ」
何度も繰り返され、当の本人は不機嫌そうに「なんだよ」と返事をした。
少女は驚いたように目をぱちくりさせる。
それから、思い出したように口を開いた。
「わたしはアイリだよ。ユーロ」
ユーロは、自分の名前以外のことをあまり話さなかった。
何処に住んでいたのか。
何をしていたのか。
どうして死にかけていたのか。
思いつく限り、少女は尋ねた。
聞くたびに、ユーロは嫌そうな顔をするのだから余計に尋ねた。
何度尋ねても、やはりユーロは口を割らない。
あんまりしつこく聞くと、最後には「うるさい馬鹿」と言われるのが常となっていた。
それを言われると、少女は決まってこう返した。
「うるさいばーか」
ユーロが動けるようになって、看病の必要がなくなったので少女の娯楽は一つ減った。
仕方ないから、母に召使の教育を施されるユーロを見つつ、また虫を弄り殺し始めた。
土の上で、5つに分解した虫がうねうねと動き続けるのを眺める。
うねうね、ぐにょぐにょともがき苦しむ。
少女はたっぷりと時間を置いた後、その内の一つに枝を突き刺した。
ぴくぴくと痙攣して、その部位は動くのを止めた。
他の四つの部位はまだ動いている。緑色の血が、土を染めている。
人の血とは違う血。
人の血は赤い。少なくとも、自分と母はそうだった。
なぜ、虫の血は色が違うのだろう?
それを考えながら、じっと血を見つめていた時、自分以外の影が土の上に現れた。
顔を上げるとユーロがすぐ傍に立っていた。
「…………」
「…………」
少女はユーロを眺め、ユーロは気色悪そうに5つに分かれた虫を見ていた。
すでにそれらは動いていない。
彼が何の用事で来たのか。
おそらく昼ご飯ができたので呼びに来たのではないだろうか。
そう思うと、途端にお腹が空いてくるから人の身体とは不思議な物である。
「ごはん?」
「そう」
少女は立ち上がる。
枝を放って、服の砂埃を叩き落とす。
パンパンッ、と。二回。三回。
では家に行こうかという段階になって、少女は唐突に動きをを止めた。
少女はチラッと足元の死骸を見て、なんとなく疑問に思っていたことを口にした。
「これ、しばらく動いてた」
「そうか」
「どうしてだろう?」
「脳がいくつもあるからじゃないのか」
少女は驚いてユーロを見た。
ユーロは一足先に家に向かっていた。
少女の家は、村から少し離れた丘の上に立っている。
ユーロは、丁度丘のふもとを上がり始めた所だった。
少女は駆け出し、追いつき、尋ねた。
「脳って?」
「お前の頭の中にあるもの」
「それがあると人は動くの?」
「脳が身体全体の指揮を取ってる」
ユーロは少女に手をかざした。
最初はパーの形だったそれを指を引っ込めてグーにしたり、人差し指を立ててみたりする。
「これも、脳があるからできる」
少女は自分の掌を眺め、同じように動かしてみた。
少女の身体は、何不自由なく動く。
「脳がなかったらどうなるの?」
「動かない」
端的にユーロは言った。
少女は繰り返し掌を閉じたり開いたりした。
――――これが出来なくなる
その感覚が、少女には分からなかった。
「頭は最も需要な部位の一つ。覚えとけ」
偉そうに締めくくったユーロの言葉に、少女は神妙に頷いた。
長らく追い求めていたものに辿り着いたような、謎の達成感が小さな身体の僅かな胸中にひしめいていた。
少女はユーロの後を追いかけ丘を上る。
今度"何か"で試してみよう。
そう思いながら。
ユーロが家に来て早一年。
いよいよ、ユーロ自身も少女たちの住む里に慣れ親しんできた頃だった。
少女とその母は近隣の住民たちに怖がられているので、もっぱら買い出しはユーロの仕事である。
それゆえに、ユーロは近所のおばさまたちにそこそこの人気が出始めていた。
幼いながらもどこか影のある表情が、おばさまたちの保護欲を刺激するらしい。
しきりに話しかけ、時にはおすそ分けと言いながら食材を渡していた。
もっとも、時おりユーロに引っ付いてくる少女がいる時だけは、誰も近づかなかった。
遠目に噂話をするだけだ。
そのため、少女はユーロがどのような人気があるのか知ることが出来なかった。
ただ、何となく人気があるのだなとは感じていた。
自分に向けられる眼とユーロに向けられる眼の違いを少女は身をもって実感していた。
その人気のほどを確かめるため、ここ数日。
眠るユーロを観察するのが少女の日課となっていた。
寝台の上で穏やかとはいいがたい寝顔を見せるユーロ。
里のおばさまたちがこれを見たら、号泣の末にあちらこちらへ引っ張りだこになるだろうと母は言っていた。
少女は、まだ色恋沙汰すら分からぬ年ゆえ、母の言葉の真偽を理解することは出来なかった。
そんな少女に母は「お前も子供が出来たら分かる」と、慈しむ様な眼差しで述べる。
「子供できるの?」と少女が問うてみたら、「ああ。このままいけばできる」と母は確約した。
母の言う事なら間違いはないだろうと少女は納得し、きたるその日を楽しみに待つこととした。
不思議と、誰との子を授かるのかは疑問にも思わなかった。
話は戻るが、少女はユーロの寝顔に保護欲は刺激されなかった。
幼い子供が年上の男の子に保護欲を抱くなど土台無理な話だったのかもしれない。
もっとも保護欲こそ湧かないにしても、ある程度の嗜虐性は刺激された少女は、眠るユーロに悪戯を施し始めた。
最初こそ頬を突っついたり、髪を梳かしてみたりと可愛げのあるものだったが、いつものごとく徐々にエスカレートした結果、口と鼻を押さえて呼吸を止めるという行為に発展した。
安眠妨害どころか命の危険にさらされることとなったユーロは、この日から碌に睡眠をとることが出来ず、里のおばさまたちに、より一層の保護欲を湧きたたせる風体へと変化していくことになる。
「なんだよ……」
「あ」
その日も、少女はユーロに悪戯していた。
鼻頭すりすりと触っていた少女は、ユーロの眼が開いたのを見て、思わず声をあげてしまった。
ユーロは余計に不機嫌になる。
それでも手を休めず、すりすりと触る少女の肝は案外太い。
ユーロは少女の手を払いのけた。そして布団に顔を埋める。
「眠い……」
「知ってる」
「寝かせて……」
「いいよ」
くぐもった声。
少女は何となく了承の意で返答して、ユーロの頭を撫で始める。
頭部の感触に、ユーロは片目を開けて少女を見た。少女は髪の何たるかを探るのに懸命になっていた。
ユーロは眼を閉じた。
段々と意識が沈んでいく。
いつもは、沈むか沈むまいかチキンレースを繰り広げる意識が、その時だけはすんなりと底に沈んで行った。
沈み切る直前、母親が少女に話しかけている声が聞こえた。
――――アイリ、話がある。
――――うん?
ユーロが聞き取れたのはそこまでだった。
あとは全て雑音となって流れていく。
――――――――。
目を覚ました。
辺りは暗かった。ユーロの意識が急激に覚醒する。
さっき目を覚ました時は明るかった。
だけど今は真っ暗である。
つまり寝過ごした。
今日一日分の仕事をすっぽかした。
やばい。
ユーロは跳び起きる。
ふとんを除け、部屋を見わたす。
少女はいなかった。
その母もいなかた。
もしかしたら、ユーロの思っている以上に時間は経っていて、二人はもう眠っているのかもしれない。
そう思い、ユーロは立ち上がって二人の部屋に向かう。
途中、流しに汚れた皿が数枚置かれているのを確認した。
後で洗わなきゃいけないなんて無意識に思ってしまった。
部屋の前に着いたユーロは扉を叩く。
返事はない。
やはり眠っているのだろうか。
起こさぬよう、そうっと扉を開いた。
中には少女が一人、寝台の上に居た。
瞼を閉じ布団を握り、すやすやと安らかな寝息を立てている。
「ぅ……ん……」
ドアを開ける際の僅かな音が刺激になったのか、少女の眠りが阻害されたようだ。
起こさぬよう、慎重にドアを閉める。
部屋の中に、母親の姿はなかった。
どこにいるのか。このほかの部屋を探しても姿は見当たらない。
家に居ないのなら外だ。単純明快な結論は、玄関付近の物音で確信に変わった。
ユーロは玄関に向かう。
音は外から聞こえたようだった。
そっと玄関窓から外を見やる。
赤いものが見えた。
ぐちゃっとした生々しいものだ。
一線続く赤い模様は、もしかして血じゃあなかろうか。
ユーロは窓から左右を確認して扉を開く。
どこの誰だか分からない者が、扉のすぐ近くに倒れていた。
顔を見る。
見覚えはない。
里の住人……なのかもしれない。
なぜこんなところで。
そう思うユーロは、そこでようやく気が付いた。
外。
光源など一切ない真っ暗闇の世界で、人の顔を認識できるなどありえないことに。
ユーロは家を離れ周囲を見渡せる場所に移動した。
丘のふもとからここまで続く赤い線は、その先の橙色の明かりでありありと見ることが出来た。
里。
密集して建てられていた家々。
それらはすぐ近くの木で作られていて、つまりは燃えやすい。
轟々と燃える里は、かなりの距離離れたこの場所にまでパチパチと言う音が聞こえてくるほど燃えていた。
今や光源としてこれ以上ないほど役に立つそこ。
そこからは火の音に反して、人の声は聞えない。
少し近づいてみても悲鳴や叫び声は一切聞えない。
ユーロは里に近づこうと小走りに丘を下って行く。
丘のふもとに二人の影が見えた。
一人は倒れていた。
それは甲冑を身に付けていた。
胸に穴が空いていた。
とっくに絶命していた。
「ユーロ」
呼びかける主は、一見して元気そうに見えたけど、だらりと下がった右腕にぽたぽたと垂れる血がその考えを打ち消した。
「アイリは無事か?」
「寝てる」
「そうか。太いな。肝っ玉が」
笑う彼女はいつも通りだが、照らされる顔はどこか青白かった。
体調が悪いのは少し見れば分かることだった。
「わたしも老いた。この程度の輩を相手にこの様だ。嘆かわしい」
首を振る彼女の背後でフオンッと音がした。
何かが倒れる音がユーロの耳に届く。
彼女はそれが聞えなかったように、首にかけていた物を引き千切り放り投げた。
受け取ったユーロは鍵の形をしたそれをまじまじと眺めた。
「お前にやる。いつかアイリに渡せ」
「…………わかった」
そうして、背を向けて里に向かう彼女に、ユーロは問う。
「逃げないのか」
「むろん逃げるとも。だが、今は誰かが時間稼ぎをしないといけない。お前は家に戻り荷物を纏めろ。わたしが戻れば一緒に逃げる。戻らなければアイリを連れて逃げろ」
頷いて、ユーロは急ぎ家に戻る。
彼女はユーロの背中を見て寂しそうに笑っていた。
役に立ちそうなものを纏め、リュックに詰める。
あれもこれもと探して詰め込んでいたせいで、母親と別れてから酷く時間が経っていた。
彼女はまだ戻ってこない。
ユーロはアイリを起こした。
不機嫌そうに唸る彼女は、やはりそう簡単には起きてくれない。
仕方ないから抱き上げる。
身長差はあまりなく、体重もある。
背中にリュックを背負ったユーロは、アイリと合わせ二つの荷物を持っていた。
とてもじゃないが逃げる格好ではない。
それでもユーロはそれらを持って家を出た。
丘の上で里の方向を見る。
彼女の姿が見えないことを確認し、反対方向へ向かった。
丘を下り、道なき道をひた走る。
どこへ行けばいいのか。
何を目的にすればいいのか。
何もない。何も分からない。
不安に押しつぶされそうなユーロは、それでも懸命に足を動かす。
精一杯走りながら、荒い息を休ませることなくただただ行く。
その最中。ふいに、胸元で声がした。
「こっちはダメ」
いつの間にやら起きていた少女が、左の方向を指さしながら言った。
「行くならこっち」
何の根拠があって言っているのかユーロは分からなかったが、しかしそれに従うことにした。
少女の指さす方向に歩を進める。
腕の中の少女は言う。
「走らなくていいよ。走ったら死んじゃうって」
こともなげに言う。
ついで、思い出したように諳んじた。
「……そう言えば、お母さんから伝言があった。
『ユーロ。今回のことはお前のせいで起こった事だから、きちんと責任を取れ。アイリの面倒を最後まで見ろ。立派に育て上げろ。それが、死ぬはずだったお前を拾った理由だ。きちんと果たせ』」
ユーロは唇を噛んだ。
血がにじむんで口内で鉄の味がするほど強く。
「――――勝手ばかり」
「……人って勝手なものじゃないの?」
「お前はこれから教育しなおしてやるよ」
ユーロは手の中の鍵を握りしめた。
たかだか一年。されど一年。
情があろう。恩もあろう。
本来聞かなくてもいいような遺言を、ユーロは聞き叶えることにした。
一先ずは、腕の中の少女の再教育から。
そう思いながら、ユーロは紛争地帯となってしまったアンティールの国境線を北上する。
先ほど見た甲冑騎士はセントヘレナの騎士で、つまりセントヘレナとアンティールが戦争を始めたと、ユーロは気づいていた。
その戦争の理由が自分を殺すためだということは、認めたくもなかった。
けれど、頭の片隅には留めなくてはいけなかった。
これからも、こういうことがあるのかもしれないから。
作中で昆虫には脳がいくつもあると書いてますが、実際にはそんなことないです。
神経節が部位ごとに存在し、それらがある程度独立しているおかげでぶった切られても動くというのが本当の所です。
作中ではそこのところ説明すると話が長くなるのであえて「脳うんぬん」と書いています。
気に食わない人は『ファンタジーだから』で脳内補完してください。