4月6日(日)家庭教師が決まりました
明日入学式だっていうのに、私はパパとママと一緒に速水家に呼び出された。
これはこの前みたいな招待とは違う。どうしてわかったかって、綾おばさんが慌ててたから。
「あ、あらっ? 今日は……どうしたの?」
おばさんの目がわかりやすく泳いだ。
くそう。今日はあの甘酢タレのから揚げにはありつけないらしい。
「お父様に呼ばれたのよ。ねえ?」
「ええ。私も休日出勤していたんですが、妻から連絡をもらいまして、早めに帰宅したところです」
「あら、お義父様が?」
玄関に対応に出た綾おばさんがなかなか戻ってこないのを不思議に思ったのか、既に帰宅していた正樹お兄ちゃんが顔を出した。
「あれっ? のどか? どうした?」
「お爺ちゃんから連絡があったんだけど……。今夜はみんなでご飯を食べに来なさいって」
綾おばさんと正樹お兄ちゃんが顔を見合わせて何やら小さな声で話している。なんだろ? なんか「今日の今日で……」とか聞こえるけど。今日の今日って?
すると、奥から今日の仕掛け人が顔を出した。
「おお! 来たか!」
ニコニコ顔で現れたお爺ちゃんを、綾おばさんとお兄ちゃんは苦笑いで迎える。私達家族は「???」だ。
「まぁ……ここじゃなんだし。おじさん達も入ってください」
「ええ。どうぞ。すぐお茶碗用意するわね」
「あら。ごめんなさいね。綾さん、手伝うわ」
「ううん。いいのよ。それよりお義父様がお話があるのではないかしら」
お爺ちゃんが? 確かにこんなに急に呼んだんだから何かあるんだろうか。振り返ると、お爺ちゃんはニコニコと楽しそうに微笑みながら私の肩に手を置いた。
「さあさあ、のどか。こっちだよ。美樹と伸輝くんも来てくれ」
ちなみに、伸輝というのはパパだ。
お爺ちゃんは早く早く、と手招きしている。その顔はまるでいたずらっ子のようだ。なんだろうと思いつつついていくと、お爺ちゃんはそのまま3階に上がって行った。ちなみに、速水家はリビングとダイニング、そして伯父さん達の寝室が2階にあり、お風呂と仏間、和室とお爺ちゃんの部屋が一階にある。そして、3階は客間が2部屋とお兄ちゃんの部屋がある。泊まりに来るといつもこの客間に泊まっていた。昔は階段で遊んでいて落ちちゃって、お兄ちゃんが怒られてたっけ。なんだか懐かしいなぁーと思っていたら、真新しい木の香りが鼻をついた。
「ここだよ、のどか。開けてごらん」
そこはお兄ちゃんの部屋の隣にあたる客間。そのドアを開けようとして、私は手が止まった。だって、ドアにかかったプレートには『NODOKA』と書かれている。
こ、これは……! 嫌な予感がした。嫌なっていうとちょっと違うな。なんていうか……どうしたらいいんだろうって困惑の方が大きいかも。
「さあ! 開けてごらん。何かなー?」
いやいやお爺ちゃん……元客間・新しい木の匂い・名前の入ったプレートときたら、何かなー?も何もなくない? さすがに無邪気に「わぁい、なんだろうー?」なんてはしゃぐ年ではないんですよ!
チラッとパパママを振り返ると、ふたりとも諦めたように苦笑を浮かべている。ママは目で「わかってるな?」と語った。
わかったよ……お爺ちゃんには甘えるんだよね? 私は諦めてドアを開けた。
そこは見慣れた客間ではなかった。
壁は一面、私の好きなミントグリーン。家具はオフホワイトの木製の物で統一されており、白い木枠が印象的な出窓にはレースのカーテン。
ミントグリーンの壁には大小様々なオフホワイトの木枠が取り付けられていて、以前ここを訪れた時に撮った家族写真などが飾られていた。
そしてベッドの存在感がすごい。白くて高さのある所謂お姫様ベッドだ。頭上からは淡いグリーンでところどころに木の葉が刺繍されたレースがかかっていた。
「お、お爺ちゃん……これは……」
「のどかの部屋だよ。どうだい? 驚いただろう?」
「う、うん……でも、どうして?」
「速水の家は学園にも近い。仕事で忙しい美樹達が帰るまでは、のどかはマンションにひとりきりになるじゃないか。ただでさえ慣れない街に来て間もないっていうのに、そんな寂しい思い、可愛い孫にさせられんだろう! いつ泊まってもいいように、のどかの部屋を用意したんだよ!」
お、お爺ちゃん……それはちょっとじじバカが過ぎるよ……。
「気に入らんか? 何しろ少し急いだからな……。ベッドか? やっぱりテレビも白がいいか?」
「う、ううん! す、すごい素敵! ええと、大好きなグリーンの部屋嬉しいよ! それにこの刺繍が入った蚊帳も!」
「のどか……それ蚊帳じゃなくて天蓋よ」
えっ! 蚊帳じゃないの?
天蓋といったら、てっきりベッドの柱がぐいーんと高くて木枠のようになっててそこにレースがかけられたものだと思ってた。
「天井から吊り下げるタイプもあるのよ」
へぇー。でも用途は蚊帳と一緒だよね。え? 違うの? 天蓋ってなんのためにあるの? あ、全員目を逸らした。ちょっと、お爺ちゃんまで目を逸らすってどういうこと? 取り付けを指示した張本人でしょうに!
でもまあ、用途はよくわからないけど、蚊帳代わりにはなりそうだ。
とはいっても……部屋を用意されたところで、私ここを使うとは思えないんだよね……。だって、速水のおじさんとお爺ちゃんを頼ったのは、あくまでも今後共働きになるパパとママの代わりに頼れる場所っていうだけで、何かあった時に連絡取れる場所が両親以外にあれば安心ってだけで……。そもそもいくら田舎育ちとは言ってももう高校生だもの。学校から帰るくらいできるよ。……方向音痴だけどさ。綾おばさんの料理教室は、話には出たけど、本格化してないしあれは社交辞令でしょう? ならやっぱり、部屋っていうのはやりすぎだと思うんだ。ほら、さすがのママだって顔が引きつってる。
「お爺ちゃん……部屋まではちょっと……」
私、甘えすぎだと思うんだー。そう言おうとした私よりも早く、当のお爺ちゃんが言葉をかぶせてきた。
人の話は最後までちゃんと聞きましょうって、習いませんでしたかね!?
「正樹が勉強を教えたらいい!」
「……はい?」
「そうだそうだ。正樹はこう見えて、教員資格を持ってるからな!」
「えっ、俺持ってるの体育……」
そうだそうだって。今思い付いたのバレバレなんですけど……しかも教員資格体育って、私にどうしろっていうんですか!
「だが、お前は大学に入るのに猛勉強してただろう! 高校生の勉強くらいは朝飯前のはずだ!」
「はぁ!? 俺が受験生の時って、何年前だよ。もう8年も経ってんだぞ?」
「お前の親友は現役の教師だろう! ならお前にも家庭教師くらいできるはずだ!」
む、無茶苦茶です……。お爺ちゃん……。お兄ちゃんだって呆れてるじゃないの!
「はぁ……わかったよ。ごめんな、のどか。じーさんはどうしても、のどかにもっとこの家に関わって甘えて欲しいんだよ。じじいの言うことだと思って、ここは受け入れてくれねーか」
お、大人! お兄ちゃん大人!
でも、お兄ちゃんは仕事も忙しそうだし、私のせいでプライベートに支障が出ないだろうか。あんまりお世話になるのもどうかと思うんだけど……。
「うん。おばさん、のどかちゃんにお料理教えるのも楽しみにしてるから、是非ちょくちょく来て欲しいわ」
あっ。綾おばさん、その話題今蒸し返すんですか?
「あらぁ。本当にいいのかしら……でも、のどかは綾さんのお料理大好きなのよね。特にから揚げ!」
「嬉しい! 油淋鶏ね。中華風のから揚げなのよ。うちではニンニクよりも生姜を多く入れてるの。うちのオリジナルの漬けダレなのよ。教えてあげるわね」
そ、それは教えて欲しい! 綾おばさん特製の漬けダレ! あの味はやっぱり綾おばさんしか出せないんだ。教えてもらったらお家でも作れるようになるかな?
「俺で良かったら勉強も教えるよ。実は、藤ノ塚はレベルが高いし独特だからちょっと心配だったんだよな」
「そうだな。お前はOBなんだから、学園のことは詳しいだろう。色々教えてあげなさい」
「えっ? お兄ちゃん藤ノ塚だったの?」
「ああ。あそこはスポーツにも力を入れてるし、設備も整ってるからな」
そうか……だからおじいちゃんも渋々だったけど許してくれたのかな?
あの学園が独特っていうのは、説明会に行ってみてなんとなくだけどわかっている。
説明会で解放されていたのは校舎の一部だけだったけど、その設備の豪華さに驚いた。それに、覚えきれないほどの学校行事。なんでも個を伸ばしつつ和を大事にするというのが学園のモットーなのだとか。
中にはなんじゃこりゃと思えるような、行事名だけでは内容が分からないものもあったし、お兄ちゃんに教えてもらえるなら有難い。
おじいちゃんの行動には驚いたけど、私はこの強引なおじいちゃんも含め、速水家のみんなが大好きだ。だから結局、私も頷いてしまった。
「さて。じゃあ食事の支度をしてくるわね」
「あら、綾さん手伝わせて」
「いいのかな。急に3人も増えちゃさすがに迷惑だろう」
「大丈夫ですわ。今日はビーフシチューなの。正樹の好物で、多めに作ってますから、是非ご一緒してくださいな」
ビ、ビーフシチュー! それを聞いて途端におなかがぐぅっとなり、部屋を出ようとした皆が振り返った。
は、恥ずかしい……!
「あらあら。急ぐわね。用意できたら呼ぶから、正樹と一緒に待っててくれる?」
「そうだ。正樹、学園のアルバムでの見せたらどうだ。口で説明するよりアルバムを見たら学園の雰囲気や行事のこともわかりやすいだろう」
「あ! 見たい!」
高校生の時のお兄ちゃんの姿は是非見たい!
お兄ちゃんはあからさまに顔を顰めて嫌そうにしていたけど、結局は折れてくれた。お兄ちゃんはなんだかんだいって優しいんだよね。
「お兄ちゃんかっこいい!」
「いちいち俺を探すなよ……。ほら。これが体育祭。こっちが――ああ、コイツ」
高校最後の体育祭は、お兄ちゃんのクラスが優勝したらしく、優勝カップを持っている全体写真が載っている。お兄ちゃんは自分の隣に写っている男の子を指差した。
日に焼けてたくましいお兄ちゃんが大きく口を開けて嬉しそうに笑っているその横で、その男の子は穏やかな微笑みをたたえていた。お兄ちゃんが動なら彼は静。そんな真逆な印象なんだけど、2人は肩を組んでいてとても仲が良さそうだった。
「さっき、じじいが言ってただろ。コイツが教師やってる俺の親友。阿久津峻だ。のどかも教わるかもな」
「えっ。藤ノ塚の先生なの?」
「そう。――あ、けど、いくら親友って言ったってテストの情報は流さねーぞ」
「そんなの聞かないよ! ひどいなぁ」
阿久津先生か。笑顔がすごく優しそう。水泳で鍛えたお兄ちゃんの隣にいるから印象が薄いけど、周りと較べるとこの人もすごくカッコいいのが分かる。生徒に人気がありそうだ。
「藤ノ塚って、先生も優秀だって聞いたよ。お兄ちゃんの親友、すごいね!」
「ああ……でもあいつは……」
「え?」
なんだかお兄ちゃんが悔しそうに唇をかみしめている。でも問いかけると少し笑って「なんでもない」と言った。
おいおいー。言いかけて止めるとか、気になるじゃん! もやもやするじゃん! これは追及したくなるでしょ!
「正樹、のどかちゃん。ご飯の用意ができたわよ!」
でも結局おばさんのこの言葉で、もやもやした気持ちも追及することも全部吹っ飛んじゃったんだけどね。
いやいや、ビーフシチューは大切ですよ!