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スマホを耳に押し当て、大声で答える。怯え切った雪美の声は震えて聞き取りにくい。何かのっぴきならない事態に巻き込まれているのは確かだ。
「雪美⁉︎どうしたの!今どこにいるの⁉︎」
「私、どこ?家の近くの公園を通り抜けようとしてた…でもわからないよ!なんだか山の中に迷い込んだみたいで!オバケが、変な猿みたいな奴が追いかけて来たの!私怖くて…」
「すぐ行くから!すぐ助けに行くから!」
ノイズが激しくなり、雪美の声が聞こえなくなる。私は携帯を掴んだまま、店の裏口から飛び出した。
雪美の言っていた公園は、私も知ってる。雪美の家まで歩いて二十分、チャリなら五分ちょいで着くはず。
店の裏口に停めてあった折りたたみ自転車に飛び乗り、足にありったけの力を込め全力でペダルを漕いだ。
なんて事だろう。
雪美は普通の女の子なのに…霊とか妖怪とか…そんなの関係無い世界に住んでる子が、馬鹿なはぐれの変化猿に追い回されるだなんて、どんだけ怖いか!
私は見鬼だから、そういう人ならざる者達を見慣れてはいる、だけど嫌な物なのは変わらないし、怖いものは怖い、見慣れた私でさえそうなのだ。
そもそも見鬼であっていい事なんてこれっぽっちも無かったし、荒魂の迷惑レベルは半端ない。
昨日の佐也子さんのやったことは許せないけど、あの荒魂を憑依した女の子から引き剥がせなかったとしたら…。あの子はいずれ荒魂に喰い殺されていた。
夏の夜の生暖かい風が私の短い髪を散らす。
早く、早く!
雪美の無事だけを祈って、夜の住宅街を急いだ。
◇◇◇◇◇
自分の呼吸が響く。
けど、だめだ。静かに、静かに、呼吸を落ち着かせなくては…。あの化け物に見つかってしまう。
隠れた岩陰に寄りかかるも、足元から力が抜けて体が沈んでいく。
へたり込んだその場所は何やら湿気を多分に含んでおり、一面苔が生えていた。
ここは…どこだろう。
さっきまでファミレスのバイトしていたのに、いつものように帰り道ショートカットしようと公園の中を通り抜けようとしただけなのに…。
いつの間にかあたりは鬱蒼としげる木々に囲まれ、僅かに木の間から覗く空には降るような星々が煌めいている。
駅前の通りから程近い住宅街に、こんな夜空はあり得ない。それにさっきは通じた携帯さえも、圏外の表示が出ている。
「蒼子…早く来てよ…。」
なんで蒼子に電話したんだろ、警察でも、家にでも連絡を入れる選択肢はあったはず。でもこんな話を聞いて信じてくれるか分からなかった。
蒼子なら?
間違いなく彼女なら私の言うことを信じてくれると思った。事実、蒼子は一言も疑うような言葉は発しなかった。そればかりか、すぐに助けに行くと言ってくれた。
ポロポロとこぼれ落ちる涙が、頬に跡を残す。
呼吸音が収まり、辺りに満ちる静寂。身動きしたらそれだけでこの静けさは破られるのではないか…、そう思えば岩陰から一歩だって動けない。
カサ…。
ほんの小さな物音に、心臓が跳ね、痛いほどに脈打つ。頭の中に響く鼓動がうるさい程。
目の前に落ちてきた枯れ葉に、先程の音の正体を見てホッとする。
「なんだ…枯れ葉…」
突然背後にコツンと小さい物音がし、反射的に振り返る。
背にした岩陰から、恐る恐る顔を覗かせるが、僅かに覗く夜空と細い三日月、そして真っ暗い森が広がるのみ。
その三日月も、涙で滲んで見えた。
「ほんともう、どこなのよここ。」
小さなつぶやきが、夜の闇に溶ける。
その時、首筋に僅かに感じる空気の動き。
微かに漂う異臭。
向き治ろうとした体は、そのまま固まったように動かない。いや、動けない。
それなのに、目に見えてかたかたと震え出す体。
それを抑えることは出来ない。
ー何か、居るー
だが恐怖で硬直した足は、地に根が生えたように動かない。
ざわざわと揺れる木々、重量のある何かが枝を揺らし、バラバラと落ちる木の実、それを踏み潰す音が近付く。
異臭が強まり、生臭さが鼻を突く。…獣の、臭い。
「み…つけ…たあ…」
硬直が溶け、弾かれたように振り返れば、巨大な2mはありそうな猿が黄色く濁った目で見つめていた。
なんの感情も篭らないその目は、何より恐怖心を煽る。
茶色の毛に縁取られた獣の顔は、赤い顔をした猿なのだが、その鋭い犬歯が覗く口が言葉を紡ぐのを見れば、猿なのか何なのか…分からない。
「…こ、い…。…まって…いる、…いそ…げ…」
猿が言葉を話す違和感よりも、目の前の化け物が近づいてくる恐ろしさに、絶叫が迸る。
身を翻し逃げようと走り出すも、四つん這いで並走して走る猿は余裕でついて来る。
当たり前か、猿の機動力と人間の歩幅と一緒にしてはいけない。
喘ぐ私の横で変わらず言葉を紡ぐ化け物。
「お…かた…さま、がおま…ちだ…」
苔の合間にゴツゴツとした石が飛び出ており、それに足を取られた。
もんどり打って左肩を強打するが、痛みに気を取られる暇は無い。
化け物にかが見込むようにして見つめられている。その視線が恐ろしい。
「…は、やく…しろ」
「 なんで、喋るの…やだ…もうぅぅ!」
涙がこぼれた。
夢で有って欲しい、けど体を駆け巡る痛みは現実だと知らせて来る。
人によく似ているが、シワだらけの大きな手が自分の腕を掴み上げた。
肌に伝わるひんやりとした温度が、変にリアルだ。
無我夢中でもう片方の腕を振り回し、足を使って猿の足を蹴ろうと暴れる。無駄な抵抗だとわかってはいてもだ。その時ー
「あのー、お取り込み中 申し訳ありませんが、彼女…離してもらえませんか。」
突然、場違いな程の静かな声が辺りに響いた。
街灯すらない暗い森の中、薄っすらと差し込む月光に映し出されたのは…ヨレヨレとした褪せた紺色のTシャツと薄茶色のカーゴパンツに足元はビーサン、頭は目元まで隠れる長い前髪の男が立っていた。
パンツのポケットに両手をつっこんで、だるそうにこちらを見ている。
「たっ、助けてください!」
「はいはい、お嬢様落ち着いて下さいね。で、そちらの方は…どうですか?僕の言ってること、分かりますか?」
まるで問診を行う医師のような淡々とした言葉は、安心よりも不安を呼び起こした。
この人、何なの?何しに来たの?
得体の知れない男の思惑が、怖い。
男の前髪の隙間から覗く目は鋭く、ひたと化け物を見据えている。
化け物は私の手を離さない、だが意識は逸れつつある。
「あんたのいうお方様は、俺の知ってる方だと思いますよ。
ただ、そうだとすればその人は人違いです。手を離して上げなさい。」
「…なぜ、…そ、う…い…える。おかた…さま…しって、いる…のか…」
くっと口の端を持ち上げ笑を作る男。
「あんたの捜し人は、神凪の巫女だろ。」
スルリと、拘束していた化け物の手が緩む。
そのチャンスを逃す訳には行かない。
私は転がるように走り出した。
もちろんあの男の方ではない、元来た道を目指し暗闇の道を…。
もう何を信じればいいか分からない。
だから、元来た道を見つけなければ…。
あの公園に戻れば、きっと蒼子が助けに来てくれる。




