完敗
病院の携帯電話が使えるエリアに入ると、霧矢はまわりを見回した。見た限り、誰かが近づいている様子はない。ほっと息を吐くと、自宅の番号をダイヤルする。
「はい、復調園調剤薬局です。どちらさまですか?」
「僕だ。その声は風華だな、霜華に代わってくれ。至急伝えたいことがある」
「何なの? 別にお姉ちゃんの手を煩わせるようなことなんて特にないと思うんだけど」
明らかに風華の口調は霧矢の困惑を楽しんでいる様子があった。苛立った口調で霧矢がさっさと代わるようにと言い放つと、風華は渋々霜華に受話器を手渡した。
「もしもし、霧君?」
「霜華、また面倒事が起こった。連中に場所を突き止められたんだが、まだ捕まってはいない。だが、そこで、あるトラブルが起こってしまった」
「と…トラブル? いったい、な、何?」
霧矢はそこで言葉を切ったが、霜華は何故かしどろもどろとした口調で、相槌も何やら煮え切らない様子だった。仕方ないので霧矢は続ける。
「セイスが連中を敵と誤解して攻撃して、車を破壊してしまった。これから謝るつもりだが、この成り行き的に、相手の要求を呑まなくちゃならない可能性がある。だから許せ」
「車を破壊って! セイスはいったいどうしちゃったわけ?」
「……だから、連中のことを、僕か西村を狙う教団の誰かと誤解したらしい。僕と西村を守ろうとして、マジックカードで車ごとぶっ飛ばした。死人は出てないと思うが……」
霜華は困ったようにうーんと唸るほかできなかった。苦し紛れに質問を発する。
「えっと…ってことは、霧君は東京に結局行くの?」
今の霜華の口調は、前の電話のそれとは明らかに変わってしおらしくなっている。不審な気持ちになりながらも、霧矢は敢えてそれを追及せず、質問のみに答えた。
「場合によっては、そうなる可能性があるってことだ。面倒だから、行かないで済むなら、それでいいが、来てくれなきゃ許さないとか言われたら、もう仕方がない」
「でも……それは、それで……」
「……もういいだろ。別に僕が数日家を空けたとしても、問題なんか起きないはずだし」
「む……そんなことは……」
霧矢はため息をつくと、一言つぶやいた。
「連絡はいつでも取れるようにしておく。何かあったらすぐ戻るから」
理由もなくひどく残念な気分になったが、霧矢は電話を切った。ため息をつくと、携帯電話をポケットにしまい込み、再び霧矢は病院の外に出た。
ロータリーには黒服の男が一人、額に絆創膏を貼った状態で霧矢を待っていた。霧矢はそんな彼らを見て一層罪悪感が強まった。彼らに近づき頭を下げた。
「すみません。知り合いがあなた方を敵と勘違いしたようで……」
「…いえ、こちらも少し不穏当なやり方を取ってしまいましたから……」
お互いに頭を下げる。霧矢が頭を上げると、フロントガラスの割れた車はすでになくなっており、代わりの車が待機していた。
「それで、僕に東京まで来てほしいと?」
「…ええ、お嬢様から連れてくるようにと申し渡されました」
霧矢はゆっくりと首を横に振った。しかし、相手も退かない。強情に突っ張る。
「ぜひとも、お嬢様はあなたに来ていただきたいと。そのためだけに我々もここまで来たのですから」
「しかし、僕にも都合というものが……」
弱みを見せないように気を付けながら、霧矢はやんわりと断ろうとした。しかし、相手も相手で、絶対に諦めようとしない。無理にでも霧矢を説得しようとする。
「これは、お嬢様だけでなく社長や奥様の希望でもあります。どうか、ご理解願います」
「ですが、そんな唐突に言われても困ります。旅支度もしていませんし…」
霧矢が言葉を濁し続けていると、黒服はついにとんでもない一言を放った。
「お嬢様が、あなたのお父様である三条淳史博士から、この度、あなたを連れ出す許可を得ています。ですので、どうか、ご同行願います」
一瞬、霧矢は黒服が何を言っているのかわからなかった。数秒の時間をかけて、言葉を理解すると、霧矢は腕時計を見る。
現在時刻、午前十時十八分。電話で問い合わせたり、喚き散らしたりしようにも、時差的に父親は夢の中だろう。電話をかけたところで出ない可能性の方が高い。
「……お父様への義理立てだと思って、どうか、ご同行を……」
霧矢が石のように固まっていると、黒服の男の携帯電話が鳴った。
「…はい。現在、説得中ですが、どうも渋っておられます。どうなされますか?」
霧矢は彼の口調から、電話の相手を察知した。今の隙に逃げるかどうか考えていると、黒服が驚きの声をあげた。霧矢の背筋に電流が走る。
「え! 駅まで来られるのですか?」
その瞬間、霧矢は硬直した。もし、霧矢の想像が正しければ、大変なことになる。
「はい、ではわかりました。到着予定は、十時四十五分ですね。お迎えに上がります。それと……え? 代わってほしい? かしこまりました」
黒服は携帯電話を耳から離すと、霧矢に向き直る。霧矢は冷や汗をかきながら、黒服の目を見据えた。そして、彼は予想通りの言葉を口にした。
「美香お嬢様です。あなたと話したいと」
霧矢は戦々恐々として携帯電話を受け取った。震える手で耳に当てる。
「……もしもし」
「…現在、新幹線に乗っているわ。駅で会いましょう。嫌だと言ったら、直接、家までお邪魔することにするわ。あなたのお母様に直接お願いして……」
霧矢は恐怖と衝撃で口をパクパクさせていたが、もはやこうなったら、イエスと答えるほかない。話題に出すだけで不機嫌になる相手と、霜華が直接会ってしまったらどうなるかなど、火を見るよりも明らかだ。直接会わせるよりは、さっさと行ってしまった方が良い。
「…わかった。駅で会おう」
もうこうなってしまった以上、そのように答えるしかなかった。