退院
(やっべーな。つい反射的に着拒しちまったけど、大丈夫かな……)
顔面に冷や汗が垂れるのを感じながら、霧矢は携帯電話をポケットにしまい込んだ。後ろでは、セイスがキョトンとした顔で霧矢を眺めていた。
「…あ、龍太来たよ」
霧矢が振り向くと、廊下の奥に杖を突いて歩いている親友の姿があった。
「…よう、三条。わざわざ見舞いに来るとは、気が利くな」
「たまたま近くを通りがかったからなんだがな。本当は、来る予定はなかったが……」
「相変わらず、憎まれ口ばかり利くやつだ。お前らしいといえばお前らしいが」
霧矢の隣のソファーに体を投げ出すと、西村は杖を右手でくるくると回した。そのついでにセイスにポケットから取り出した財布を投げ渡す。
「悪い。ちょっと、喉が渇いた。ジュース買ってきてくれ」
セイスがトコトコと駆け出すと、彼は霧矢に愚痴っぽい口調で語りだした。
「まったく、こいつがないと、痛くて歩いてられない。傷はふさがったが、それでも、激しく動いたら、また開かないなんて保証はないしな」
「だったら、しばらくは家で療養することだ。春休みはまだまだ続くみたいだしな」
霧矢がぼそりとつぶやくと、西村は苦笑いを浮かべた。
「いつになったら、学校が再開するのやら……」
「僕はもう休みに飽きたよ。早く学校に行きたいと思ってる」
わざとらしく大きく伸びをすると、霧矢はあくびをした。西村を横目で見ると、彼は悲しみとも喜びともつかない複雑な表情を浮かべていた。
「そう言えば、お前と勝負してたテストも、焼けちまったんだっけ……」
「…答案用紙から始まって、成績を記録したパソコンまでな。何もかも灰になったらしい……」
苦い口調で霧矢が言葉をひねり出すと、西村は明るい口調で言った。
「まあ、悪い記録もなくなったって考えれば、いいんじゃないか?」
「……それをやった人間が誰かと考えれば、とても笑える話なんかじゃないだろうが……」
霧矢は残酷だと思いつつも、思ったことを正直に口に出した。西村はその瞬間、一気に顔色が変わった。口を真一文字に結ぶと、天井を眺めた。
「…今頃、何をしてるんだろうな……あいつ……」
霧矢は敢えて何も答えなかった。西村はそうつぶやいているが、彼とて人並みの思考力はある。彼女がどうなっているかくらいの見当はついているはずだ。
人間焼夷弾と化した彼女を眠らせておくのは、人材の無駄遣いでしかない。また、テロ活動に最適な人材が、テロ活動を行う可能性のある団体にいるということが、どれほど危険なことかわからないほど霧矢も西村も愚かではない。
「僕は、何もできないだろうし、もう何もするつもりはない。余程のことがない限りな」
「……そうか。じゃあ、それは俺の仕事になるわけだな……」
霧矢は西村の顔を見た。彼は笑っていた。
「いつか、あいつを見つけ出して、ちゃんと、元の世界に戻してやる仕事だ」
霧矢は反射的に口を開こうとしたが、思い留まった。この結論は、彼なりに出したものであり、霧矢がどうこう言うべき問題ではない。また、霧矢が今更何か言ったところで、彼が考えを改めるつもりなどあるわけもない。
ならば、それに対しては、前向きに助言を与えるべきだろう。
「…それは別に構わないが、自分の身の安全もしっかりと図れ。セイスを二度と心配させるんじゃないぞ。お前の命は、あいつの命でもあるんだから」
西村はしばらく瞬きしていた。そして、数秒経ったのちに、疑念の口調で言った。
「…なあ、三条。お前、変なものでも食ったのか?」
「……おい、いったいそれはどういう意味だ。聞かせてもらおうか……」
「いや、普段のお前なら、小馬鹿にしたように反論してくるはずなんだが……」
霧矢はムッとした表情で彼をにらみつけた。西村は少し霧矢から体を遠ざける。
「…馬鹿に説教をするのは時間の無駄だからだ。文句あるか?」
西村は安心したようにほっと息を吐くと、背中を背もたれに預けた。霧矢もうんざりしたように顔を天井に向けた。
「なあ、お前、塩沢でも誰でもいいから、そっちの筋の人間に連絡取れないか?」
出し抜けにつぶやいた西村に霧矢は背筋を伸ばした。黙っていると、彼は続ける。
「…中里がどうしてるか知りたいんだよ。裏の人間ならわかるんじゃないか?」
霧矢はそこで考え込んだ。
確かに、相川探偵事務所のような裏組織に頼めば、同じく裏社会の人間となった中里時雨についての情報を得ることはできるかもしれない。しかし、霧矢はすでに、中里時雨の身辺調査で、彼らに借りを作ってしまっている。これ以上多くの借りを作ることにでもなれば、後になってどんなことに協力させられることになるのかわからない。
それを考えると、安易に相川探偵事務所に頼ってしまうのは危険であるという結論に至る。しかし、彼ら以外で何か情報を得られそうな知り合いは霧矢にはいない。
結局、答えは出ない。仕方なく、霧矢はごまかすことにした。
「…その傷が完全に癒えたら、考えてやる。今は早く傷を治せ」
西村は不服そうな顔を浮かべたが、今の体の状態で、彼女を探すなどとても不可能だということは自分でも理解しているのだろう。渋々ではあるが、彼は受け入れた。
ジュースを買って戻ってきたセイスと霧矢は入れ替わる形で、そのまま席を立った。
「どこに行くんだ?」
「…ちょっと、トイレに行ってくる」