電話
病院に着いたものの朝早い時間帯ということもあり、まだ、面会の時間にはなっていなかった。もっとも西村は退院するので、今更病室に行っても仕方がないような気もするし、そういう仕事は家族の領分であって、霧矢が出る幕ではない。
霧矢も空腹を感じ、売店で適当に朝食を買い込み、ソファーに腰掛けると、パンの袋を脇に置き、紙パックにストローを突き刺した。
胃の中に冷たく甘い液体を流し込んでいると、自動ドアが開き、冷たい風と共に、見覚えのあるシルエットが霧矢の視界に飛び込んできた。
「おはよう、霧矢。相変わらず早足だね」
「……普通に歩いていただけだぞ。それと、ああ、おはようございます」
霧矢はソファーから立ち上がると、セイスの隣の女性に頭を下げた。
「退院おめでとうございます。一時はどうなるかと思いましたけど、何よりです」
西村の母親に、霧矢は少し後ろめたい気分でお祝いの言葉を述べた。しかし、西村の母親は純粋に感謝の意を示した。霧矢はその様子を見て、少し胃が揺れる思いがした。
霧矢の表情が曇ったのをセイスは敏感に察知したのか、母親に先に行くように言った。彼女が立ち去ったのち、セイスは声を低くして霧矢に告げた。
「気にすることなんてないのに。お母さんは純粋に龍太が助かったことに喜んでる。犯人が誰かなんて特に興味がない。田中彩に関して何も言えないことを気に病む必要はどこにもないし、言う必要もない。大丈夫」
霧矢は何も言わずに、再びソファーに腰を下ろそうとした。しかし、その瞬間、パンの袋がないことに気付いた。左右を探していると、セイスが出し抜けにつぶやく。
「いただきます」
「オイ! 何、人のパン勝手に食ってんだ!」
霧矢が怒鳴るが、セイスはお構いなしだ。十秒と経たないうちに、霧矢の朝食は消滅した。怒る気力も失せた霧矢が涙目になっていると、携帯電話が振動した。
「…ついに来たな……」
ディスプレイには自宅の番号が表示されている。三人のうち誰からかはわからないが、いずれにしても、きちんと説明しなければ、帰った時に命の保証がない。
通話ボタンを押すと、霧矢はロビーの隅に移動した。
「もしもし……」
「……霧君、今どこで何してるの?」
電話の相手は霜華だった。しかし、口調的に怒っているわけではないようだ。少し安心した気分で、霧矢は口を開いた。
「……西村の退院の立ち会い、お見舞い、うーん、何と言えばいいんだろうかな…? まあ、とりあえず、今は陸陽の病院にいるぞ」
「そう…じゃあ、何で黙って出たわけ? ちゃんと言ってくれればいいのに」
特に理由もなく出て行って、セイスから思い出させられて、たまたま病院に行ったなどと言うわけにもいかず、霧矢は適当に言葉を濁した。
しかし、それが、霜華の機嫌を悪い方向に傾けることになるとも思ってもいなかった。
「……本当は、何か違う理由があったんじゃないの?」
明らかに霧矢に対して不審的な口調を浮かべているが、霧矢はまだ何とかなると思っていた。三秒ほどで言い訳を考えると、何とかつなげてみた。
「…えっと…大人数は迷惑になる……それと、朝早く起こすのは……気が引けた……あとは……何となく、そういう気分だったから……かなあ……はは…ははは……」
「………へえ……そうなの……」
その瞬間、霧矢は自分の夕方の姿を明確に予想することができた。霜華の声には殺意がにじみ出ている。間違いなく、帰ったら、氷の槍で串刺しにされる。
「霧君、一回だけチャンスをあげる。正直にすべて何もかもあったことを話しなさい。そうすれば、内容によっては、不問に処してあげる」
「……内容によっては…って、もしも、内容が内容だったら?」
恐る恐る尋ねた霧矢だったが、霜華の答えは予想通りのものだった。絶望的な気分で霧矢は口を開いた。
「……正直に言いますと、美香から逃げています。一応、病院にいるというのは本当ですが、今日一日中は、家に戻るのは危険だと考え……」
敬語で霧矢は昨日の電話について説明していく。霜華はただ平坦な口調で相槌を打つだけで、霧矢が彼女の機嫌についてうかがい知ることは難しかった。
「…以上の通りです。ご質問があればどうぞ……」
怒号が飛んでくるかと思いきや、霜華の返答は意外なものだった。
「逃げてるんだ。なら、別にいいよ。仮に、家に誰かが来たとしても、私も霧君の居場所なんて言うつもりないし。うん、今日一日、ゆっくりするといいよ」
先程までの殺意に満ちた声はどこへやら、霜華の口調は完全に穏やかなものだった。霧矢が唖然として黙り込んでいると、霜華は再び厳しい口調になった。
「た・だ・し!」
霧矢が黙れと一喝するときの口調をまねるように、霜華は大きな声で短く区切った。霧矢は反射的に背筋を伸ばした。
「な、何でしょうか……霜華さん……」
「絶対につかまらないこと! もしも、京浜製薬や片平家の人間に捕まったら、その時は覚悟しなさい! 助け出すついでにお仕置きするから、東京に私、乗り込むよ!」
何も言えない霧矢に、霜華もこれ以上何も言わず、そのまま電話は切れた。その瞬間、霧矢は安堵して全身の力が抜け、そのまま膝が床に激突した。
「た…助かった……」