逃避
三月十九日 火曜日
朝早く目覚めた霧矢は、服を着込むとともに、外出の準備を整えた。部屋の窓から外を見る限り、不審な人影はまだ見えないが、美香は虚言を言うような人間でない以上、警戒しておくことに越したことはない。
(まったく、迷惑なことだな……)
力砲と剣のカードを身に着け部屋を出ると、できるだけ音を立てないように階段を降りると、そのまま居間の襖を少し開けた。中を覗き込んでみると誰もいない。これを好機ととらえ、霧矢は置き書きの紙を投げ込むと、急いで玄関から家を出た。
(うわ……寒い……)
晴れているだけあって、外はかなり冷え込んでいた。霧矢は一応コートを着込んではいたが、早朝の寒さはそれでも応えるものがある。白い息を吐きながら、霧矢は駅に向かってゆらゆらと歩き出した。
結局、霧矢のとった方策は、今日一日中どこかに出掛けるというものだった。万一、誰かが来たとしてもいないというなら、諦めて帰ってくれる。そんな展開を期待していた。無論、美香がそんなことを許すわけがないということは理解しているが、宝くじを買うくらいの薄い望みで霧矢は家を飛び出していた。
駅に着くと、霧矢は暖房の効いた待合室に入って腰を下ろした。
とりあえず飛び出してきたものの、霧矢としてはまだ行き先を決めてはいなかった。財布の中には元旦の報酬があるため、所持金自体は一般的な高校生が持ち歩く標準的な額よりもはるかに多く、東京まで新幹線に乗って往復したとしてもまだ余るほどあった。そのため行き先はどこでもよいのだが、それがかえって行き先を決めかねる原因にもなっていた。
(どこに行ったらいいのやら……)
ため息をつきながら思索に暮れていたが、電車の到着を知らせる放送が鳴った。放送によると次の電車は上りらしい。
「だったら、陸陽にでも行くか……」
ゆっくりと腰を上げると、待合室から出たが、こたつと同じで、いきなり気温の低い外に出るのはなかなかの苦痛だった。寒さに震えながら霧矢は切符を買い、さらに寒いホームに出た。あたりは相変わらずの白一色である。
(関東じゃ、もう桜が咲いているんだよな……)
駅のホームから見える桜の木はつぼみすら見ることができない。雪の白と幹の黒が見事なツートンカラーを作り出しているだけだった。
国鉄時代から運用されている古い電車に乗り込むと、中は隣町の陸陽高校の朝練に向かう生徒で割と混雑していた。
中吊り広告には週刊誌の見出しがあったが、もう浦沼高校の火事騒ぎの記事は余り載せられていなかった。やはり、裏社会の組織か何かが圧力をかけているのだろうか。もうこの話題が表沙汰になることは少なくなっていた。
どこまでも続く雪に埋もれた水田とその果てに見える県境にそびえる山を眺めているうちに、電車は陸陽町駅に到着した。朝練の高校生とともに電車を降りたところで、霧矢のポケットが振動した。
(…さては、そろそろバレたかな……)
言い訳は何も考えていないが、ここで電話に出ないとなると余計に話がややこしくなってしまう。それに、西村に常に連絡は取れるようにしておけと説教した手前、言行不一致を堂々とするわけにもいかない。
振動する携帯電話をズボンのポケットから引っ張り出すと、表示されていた番号は三条家の電話番号ではなく、西村家のものだった。
「…もしもし?」
「おはよう、霧矢。私だよ」
電話の相手は西村龍太の契約魔族、セイス・ヒューストンだった。霧矢としては、ひとまず安心するとともに、予想外の電話に少々面食らっていた。
「おはよう。セイス、僕に何の用だ?」
「何の用って……今日が何の日か、覚えてないの?」
霧矢は沈黙した。記憶を引っ張り出そうとしたが、その前に呆れた口調のセイスが先に答えてしまった。
「龍太の退院日! それくらい覚えておいてよ!」
セイスの強い口調は携帯電話のスピーカーを震わせ、霧矢の鼓膜を破壊しようとしていた。とっさに霧矢は携帯電話を耳から遠ざけると、セイスが黙るまで携帯を持つ腕の位置を耳から離した状態で固定していた。
セイスの声が途切れると、霧矢は再び携帯電話を耳にくっつけ、口を開いた。
「……とりあえず、今日が西村の退院日だったということは思い出した。僕も一応行くから、そういうことでいいか?」
「…じゃあ、迎えに行くけど、何時がいいかな。車を使うから、陸陽町駅でもいいし、電車に乗るのが面倒なら、薬局まで直接迎えに行ってもいいけど、どっちがいい?」
「……いや、今、僕はその陸陽町駅にいるんだが……」
セイスは一瞬わけがわからないとばかりに、唸り声をあげると、怪訝な口調で尋ねた。
「ねえ、霧矢は龍太の退院日を忘れてたんでしょ? でも、だったら何でわざわざこんな朝っぱらから、わざわざ陸陽まで来たの? 買い物にしても早すぎるけど?」
「…それは、いろいろと深い事情があってだな……」
霧矢は詳しく説明することは避けたが、セイスは別に深く追及しては来なかった。興味があるのかないのかわからないような平坦な相槌を打つと、話題をさっさと元に戻した。
「じゃあ、今すぐ車を出すね。いや、でも、直接病院まで行った方が早いかなあ…?」
西村の家は陸陽の外れにあり、車を使っても駅までかなりの時間がかかる。車で迎えに来るまで待っている時間よりも、駅から歩いて病院まで行く時間の方が短かった。
「僕は歩いていくさ。お気遣いありがとな」
電話を切ると、霧矢はゆっくりとアスファルトから吹き出す消雪パイプの水を避けながら、病院の方へ向かって歩き出した。