潜伏
「……何とか撒いたようだな…」
息を切らしながら、霧矢は美香につぶやいた。美香は初めて見る店舗の内装を物珍しそうに眺めていた。
「…少しここで隠れていよう。まあ、三十分でいいだろう」
霧矢は店員の案内に従って、美香を連れて個室に入った。長いソファーがテーブルをはさんで壁を背にして並べられている。部屋の奥には大きなテレビと機材があり、テーブルの上にはタブレット型の端末とマイクが置かれている。
「へえ……ここが例のカラオケボックスなのね……」
「……正直な話、僕もカラオケに行った回数は片手で足りるくらいしかないんだ。しばらく身を隠すのにちょうど良さそうだから駆け込んだが……」
「それはともかく、見たところあの眼鏡の男性、間違いなく警視庁の私服警官よ。それから逃げ出したということは、余計怪しまれているんじゃないかしら」
「……と、言うと?」
霧矢は渇いた喉を潤そうと飲食メニューをめくった。美香もメニューを覗き込みながら答える。
「別にやましいことがないなら職質くらい普通に受けたらいいじゃない。むしろ、逃げ出してしまったから、最悪の場合、この周辺に検問が張られる可能性だって……」
「……検問が張られて、僕は指名手配犯扱いですか……それは面倒だ」
「声に抑揚がないのだけど、何でそんなに萎れているのかしら」
改めて自分は何と愚かだったのだろうかと思う。確かに、目の色を変えて追いかけてきた相手を不気味に思うのは普通かもしれない。しかし、いきなり逃げ出してしまっては何の意味もない。先程の霧矢の行動は、相手にいたずらに不信感を抱かせただけだった。
「とりあえず、何か飲みたいわ。注文してちょうだい」
霧矢は受話器を取り上げると、飲み物を二つ注文した。美香はタブレット端末の画面をいろいろとタッチしている。
「へえ……いろいろあるのね。採点機能とか……」
「歌いたかったら、勝手に歌ってくれ。僕は少し休む。今の僕に、歌うほどの気力はない」
霧矢は疲れた口調で言い放つと、そのままソファーに体を投げ出した。美香はタブレットで曲を予約すると、マイクを取り上げた。
「こういう感じで歌うのは初めてだわ……」
「そうかい。だったら、好きにしてくれ」
イントロが流れ出し、ディスプレイに歌詞が表示され、美香はそれに沿って歌い出していく。霧矢が聞く限り、歌は良家のお嬢様らしくそれなりに上手い。もっとも、カラオケのエコーがかかると、少しくらいの下手さは補正がかかってあまり目立たないと聞いたこともあるが、それでも、美香の歌は決して下手ではない。
歌っていたのは洋楽だったが、英語の発音はかなり上手だった。やはり、名門女子高の優等生は何から何まで、霧矢の住む世界の標準的な高校生とは格が違っていた。
「……九十七点。これって、スコア的にはかなり良い方なのかしら」
霧矢は黙っていたが、カラオケボックス初体験の人間が、最初の曲からこんなスコアを叩き出せるということは普通ではありえない。霧矢がその様子に舌を巻いていると、戸がノックされ、店員が飲み物を持って入ってきた。
「……やれやれ、やっと喉を潤せる……」
ため息をつくと、霧矢はコップの中身を一気に飲み干した。美香も自分の飲み物に口をつけると、力なくソファーにもたれかかっている霧矢に尋ねる。
「あなたは歌わないの?」
「……僕が歌うと、場が白けるし、さっきも言った通り、歌うほどの気力はない」
「つまり、あなた、音痴なのね?」
「……そこまでひどくはないと思うけどな。中学まで音楽は最低でも四だった」
高校に入ってからは、芸術は書道を選択しており、歌とは無縁だった。霧矢のまわりの人間も歌とは無縁の人が多い。
晴代は美術選択であり、文香は書道、西村も書道である。霧矢の知り合いで音楽が得意な人間はあまりいなかった。唯一の例外と言えば、有島くらいで、彼女だけが霧矢の知り合いの中では音楽に長けていた。
「……さて、もう一曲歌おうかしら…結構楽しいわ、これ」
「それはよかった。楽しんでいただけたようで、何よりです」
白々しく言い放った霧矢だったが、美香は気にも留めず、次の曲を入れていく。霧矢は彼女の歌を、適当な態度で聞き流していた。
やがて、当初予定していた三十分が経過し、霧矢は延長せずにそのまま店を出ることにした。美香はもっと歌いたいと言っていたが、これ以上、ここで道草を食っているわけにもいかず、霧矢は精算を済ませると、半ば無理やりに美香を店から連れ出した。結局、当初の目的は食べ歩きのはずだったが、ただの散歩になってしまったような気もする。
「もっと、歌いたかったのだけど……」
「もう、四時も回った。このペースだと渋谷を回るのは無理だ。そのまま、家まで送る」
「別に、自力で家に行くのが面倒なら、レイに迎えに来させてもいいのよ。夜遅くまで街を回っていても、問題はないと思うわ」
「……それを、片平社長の前でも言えるのか? お嬢様が夜遊びなんかしてみろ。大目玉を食らうこと間違いなしだし、僕にもとばっちりが来る可能性がある」
霧矢は頭の中の地下鉄路線図を思い浮かべると、美香の家までのルートを探す。
「お前の家って、確か麻布だったよな。最寄りの駅は、麻布十番で間違いないな?」
「……ええ。麻布十番からなら徒歩ですぐよ」
「…となると、新宿駅から、大江戸線だな……」
しかし、現在地は新宿駅から見て東側のため、大江戸線に乗るとなると、駅ビルを横切らなければならない。人ごみに慣れておらず、迷子になりやすい美香を、上京者を何人も葬ってきた東京屈指のダンジョンに放り込むのは不安だった。
(そうなると…むしろ、丸の内線から、南北線に乗り換える方がいいのか?)
霧矢が考え込んでいると、美香は尋ねる。
「ねえ、もう帰るつもりなんでしょ?」
「まあ、お前を家まで送り届けて、僕は手頃な値段のホテルでも探さないと……」
霧矢が深く考えずに答えると、美香は呆れたように言った。
「…あのね、あなたの滞在先を確保しないで、東京まで呼びつけたりするほど、私のことが無礼な人間に見えるの?」
「……悪いが、そう見えると言わざるを得ない。今日のお前の行動を見る限り」
霧矢が素っ気なく答えると、美香は膨れ面になって、突っかかって来る。
「あなたの部屋は用意してあります! 私の家には来客用の寝室くらいあります。そもそも、私の両親と会ってもらうと数刻前に言ったばかりでしょう!」
美香の家に泊まることになる可能性があることは、霧矢も十分理解していた。だからこそ、ホテルを探すと霧矢はここで言った。正直な気持ちとして、彼女の屋敷に滞在するのはできれば遠慮したかった。贅沢とは相性の悪い霧矢にとって、片平家のような富豪の屋敷は精神衛生上、あまりよいスポットとは言えない。
霧矢が黙り込んでいるのをよそに、美香は自分の携帯電話を取り出すと、メールを打っていく。送信し終わると、美香はため息をついて携帯をしまった。
「迎えが来るわ。待ち合わせは新宿区役所にしておいたから、行きましょうか」
「……一応、区役所がここの近くだってことは理解してるんだな」
「インターネットで地図を見ただけよ。調べなきゃまるでわからないわ。私としては、都民でもないのに、地図も地下鉄路線図も見ずに都内をてきぱきと動けるあなたの方が異常だと思うのだけど」
美香は感心半分、呆れ半分の口調で霧矢を褒めたが、霧矢は複雑な気分だった。
人にはあまり胸を張って言えない趣味だが、霧矢は地図マニアであり、卓上旅行を適当に妄想することもある。東京は父親の仕事の都合で何度か来たことがあるので、さらに詳しくなっているのだが、それを差し引いても、一般人の東京における地理的センスをはるかに凌駕していることは否定できない。
「何をそんなにしかめ面をしているの? 私、何か気に障ることでも言ったかしら」
「……いや、何でもない」
霧矢は顔を赤くして首を横に振ると、区役所に向かって歩き出した。