軽口
「…やれやれ、今月に入って十三件目か。この手のボヤ騒ぎは……」
繁華街の雑居ビルの前に立ち入り禁止のテープが張り巡らされている中、警視庁の刑事である内野英輔は焦げ臭い現場でため息をついた。
消防からの情報によると原因不明。出火した場所の付近にコンロやガスストーブなど火元になりそうなものはなく、明らかに放火と思われるのだが、それに使用したと思われる道具は見つかっていない。周囲に聞き込みを入れても、それらしい目撃証言はない。
「被害者の状況は?」
「……暴力団関係者が二人、病院に搬送されました。一人は間もなく死亡、もう一人も残念ながら、意識がまだ戻っていません」
報告を聞くと、内野は手帳にメモ書きを走らせていく。書き終えたところで前のページをめくると、そこにも放火事件のメモが書き込まれている。しかし、そこに書かれている今までのメモと今日の事件についてのメモは、被害者の状態について大きな違いがある。
(…ついに死人が出たのか……もう限界かな……)
一応、犯人の目星は付いているのだが、証明どころか疎明すらできないのが癪だった。このような表向きは詳細不明の事件の取り締まりは、警察自身が行うことはできず、非常に不本意であるが、その筋の人間に「外注」しなければならない。
今までは、まだ何とかなると思って、正式に発注したわけではないが、死亡者が出てしまった以上、そろそろ限界に達したとみて間違いない。
「わかりました。ありがとう。僕は本庁に戻ります」
報告した所轄の警官に礼を言うと、内野はパトカーに乗り込もうとした。しかし、シートベルトを締めようとしたまさにその時、写真でしか見たことがないが、その筋での要注意人物の姿がサイドミラーに映り込んだ。
(…間違いない…彼は……)
内野は乱暴に車のドアを開けると、その少年の方へ向かって駆け出した。その途端、少年は驚きの声をあげ、隣にいた年は同じくらいの女の子の手をつかむと、そのまま、内野から逃げるように、路地裏に向かって駆け出してしまった。
「君、待ってくれ! 三条霧矢君だろう! 話がある!」
内野は全力で追いかけようとするが、相手の足の方が速い。あっという間に見失ってしまった。もともと、新宿の路地は入り組んでいるが、それが彼に幸いし、内野には災いした。息を切らしながら壁に手をつくと、内野は携帯電話を取り出した。
息が整うのを待って、内野は電話をかける。しばらくして、相手は電話に出たが、声はいつもよりも不機嫌そうだった。
「何だ。お前の方からかけてくるなんて珍しい。また、仕事の依頼か?」
「仕事の依頼と言うよりも、君に知らせておくべきことがあると言った方がいい」
「……俺に知らせたいことだと?」
内野は楽しむような口調で電話の相手に答える。
「君の事務所の協力者、規格外の水の魔力の持ち主だけど………」
「……三条霧矢がどうかしたのか?」
相手はその名前を聞いて余計に不機嫌な声になった。しかし、内野はいつもの軽い口調を崩すことなく、傍から聞けば苛立つような口調で続ける。
「…ところで、塩沢。この情報、いくらで買う? 僕も最近、懐が寂しくてね」
「……四十五口径の鉛弾一ダースくらいで買おう」
「冗談が通じないなあ、君っていつもそんな調子じゃないか」
「下らない話を続けるなら、電話を切るぞ。お互いに何の利益にもならないだろうが」
「時は金なり、か。だったら、君はとんでもない貧乏人かな」
塩沢は不快そうなため息をつくと、電話を切ろうとした。内野は慌てて答える。塩沢に本気で嫌われてしまうと、しばらくの間、上司である相川の命令以外では、一切警察に協力してくれなくなるため、最後のラインを踏み越えてしまうわけにはいかなかった。
「わかった、わかったから! ちゃんと価値のある情報を提供するから、君も僕の質問に答えてくれ。僕は情報が欲しいんだ!」
「最初からそう言え。で、三条霧矢がどうかしたのか?」
呆れたような口調で塩沢は内野に問いかける。内野はほっとした口調で答えた。
「つい今さっき、彼を見かけたんだ。新宿でね」
「新宿だと? 何であいつが東京にいるんだ。魚沢の片田舎に引っこんでいるはずだが」
「そこなんだよね。だから、君に聞きたいことがあるんだよ」
内野は手帳を取り出すと、新しいページを開き、ボールペンをノックした。これはメモする価値のある情報であり、場合によっては、警察の人員を動員することも考えられる。
「さて、まず一つ目。三条霧矢君を見かけたのはさっき言った通りだけど、相川探偵事務所は、中里時雨が第一級危険人物に指定されたという事実を、彼、または、彼の知り合いに話したのかどうか、聞きたいな」
塩沢の答えはノーだった。そもそも、昨日知ったばかりの情報であり、話すかどうかについても、事務所の中で話がまとまっていないとのことだった。水葉は話すべきだと主張したそうだが、塩沢は反対した。その事実を霧矢や西村に伝えるかどうかについて、最終的な判断を下すのは相川だが、彼はまだ決めかねているらしい。だが、今のところ、まだ彼らにその情報が伝わっていないのは確からしかった。
「なるほどね。では、話していないんだね?」
「ああ、そんなことを話してみろ。連中がいろいろと裏社会に首を突っ込もうとしてくること間違いない。そんな危険な目に遭わせられるか」
「まあ、君の意見ももっともだと思うね。では二つ目の質問だ」
塩沢の回答をメモしながら、内野は質問を続ける。塩沢はうんざりした様子だったが、内野は気にせず質問した。
「さっき、霧矢君に女の子が一人ついていたんだけど、心当たりは?」
「何人か候補がある。特徴を教えてもらえれば、知っている範囲で答える」
「何人か候補って……何だい。平日の昼間に新宿の歌舞伎町界隈でデートをする人間の候補が複数いるほど、彼はモテるのかい?」
「……北原霜華、北原風華、上川晴代、木村文香、雨野光里………まあ、挙げ出したらきりがないくらいに、女子の知り合いが多い男ではあるが」
内野は感心と呆れが半々のため息をつくと、一瞬しか見えなかったものの、少女の外見を断片的ではあるものの思い出していく。
「…年齢は十代半ばといったところかな。背は百五十センチくらい、やや長めの黒髪。目つきは良くも悪くもない。体型はやや痩せ型から標準にかけて…それくらいか」
「…その特徴からすると、北原霜華の可能性が高いが……断定はできない。情報が少なすぎる。特定するにはもっと多くの情報が必要だ。写真とかはないのか?」
それができれば苦労しない。また、北原霜華という人名が話題に上ったが、内野はその人がどんな素性の持ち主なのかはまるで知らなかった。
「いったい誰なんだい。その北原霜華とやらは」
「……彼の実家に居候している魔族のハーフだ。だが、契約はしていないと聞いた」
内野は、それ以上のことには興味がわかなかった。この質問に関しての話題を打ち切ると、最後の質問に移った。
「じゃあ、最後の質問。彼が東京にいることが、君の仕事の妨げにならないか聞いておきたい。もしも、妨げになるようなら、監視する必要性が出てくるけれど、別に特に何も障害にならないなら、今回は放っておくよ」
警察としては、彼を抱き込んでおきたいという下心もないわけではないが、下手に裏社会との摩擦を増やすのも考え物であり、内野の一存で決められることではない。このことは、上司である青葉に報告する必要があるだろうが、とりあえず、あらかじめ塩沢の意見を聞いておくことも決して愚策ではないだろう。
「今のところ、ターゲットは首都圏にいるらしいが、別に彼が直接の妨げになることはないだろう。捨て置いてくれ」
「はいはい、じゃあね。また数時間後に電話するかもしれない」
「抜かせ。これ以上俺の手を煩わせるな」
塩沢はうんざりした口調で言い放つとそのまま電話を切った。内野は携帯をしまうと、来た道を戻り始めた。太陽はすでに西に傾きつつあり、日没まであまり時間がないことも示していた。