帰還
雪深い山奥にある魚沢市のさらに山奥の集落に、西村龍太の家は存在する。魚沢市の中心部である陸陽地区からはとても徒歩では行けない距離にあり、車を使ってもそれなりに時間がかかる。霧矢の住む浦沼地区よりもさらに人口は少なく、限界集落に指定されるかどうかの瀬戸際の集落だった。
「やれやれ、やっと着いたか……」
「傷は痛まない?」
「……まあ、ふさがったから退院したわけだが……でも、痛いものは痛いぜ」
「…無理しないでね」
セイスは西村のスポーツバッグを持つと、車を降りた。西村は残雪に杖を突き、ゆっくりと懐かしい自宅の玄関に向けて歩き出した。
「それにしても、大分雪も減ったな」
「…まだ、スキーは余裕でできるけどね。でも、確かに減った」
セイスは大量の荷物を運ぶために、玄関と車を行ったり来たりしている。西村は玄関に腰を下ろすと、自分の隣に置かれている荷物を眺めた。
(……結局、捨てられなかった……)
カバンの中には、刺された日に着ていたもので、今は穴の開いている血染めの布きれとなった服が畳んである。捨てるに捨てられず、そのまま持ってきてしまったのだが、それを見るたびに、複雑な思いになる。
不思議なことに、刺されたことに何ら怒りや憤りは抱いていなかった。それよりも、時雨がどうしてあんな凶行に走ったのかが、ただひたすらに不可解だった。
自分を刺した人間はすでにこの世になく、その人間を消した人間には会いたくても会えない始末だ。せめて会って、一言でも言葉を交わしたいと思うものの、どこを探したらよいのかもわからない。それを思うと、気分が沈む。
「これで全部?」
「そうね、ありがとう。もう、戻ってもいいわよ」
「はーい」
母親とセイスの声が外から聞こえ、西村はゆっくりと立ち上がった。傷は痛むものの日常生活には苦労しないレベルの痛みだった。痛みはやがて消えるだろうが、この傷痕はおそらく一生消えることはないだろう。
リビングに入ると、父親が嬉しそうな顔をして待っていた。しかし、何と言ったらいいのかもわからず、黙ったまま自分の椅子に腰を下ろすことしかできなかった。それでも、父親は不満そうな顔をすることなく、笑顔で息子を見ていた。
「どっこらしょ!」
よろよろと大きな包みを持って入ってきたセイスがテーブルの上に、掛け声とともに包みを叩きつけた。ビニールの包みを解くと、かなり大きなオードブルが姿を現した。しかし、これでも到底足りないのは明白だ。
「…他には?」
「まだあるよ!」
そう言うとセイスは再び部屋の外に出て、そしてまた包みを抱えて持ってきた。包みを解くと、今度は大きな寿司桶が姿を現した。
「…足りないだろうな……」
さすがにそれ以上何かあるわけでもなく、これで打ち止めだったが、それ故に、勝負は早い者勝ちであることが明白になった。でも、病み上がりのリハビリとしてはちょうどいいのかもしれない。
「悪い、ちょっと、部屋に行ってくる」
家の中ではまわりに手を付くところがたくさんあるので、杖は必要ない。壁に手を付けながら、自分の部屋に戻ると、乱暴に椅子に腰かけた。
「はあ……」
ため息をつくと、机の引出しを開けた。中には時雨からもらったバレンタインチョコレートの袋がまだしまってある。短い付き合いだったが、彼女からもらったものの中で形に残っているものと言えば、これくらいしかない。
形に残っているものは少ない。だが、形に残らないものは決して少なくない。そう思いたい。形に残らなくとも、中里時雨という人間の存在は、西村龍太の心の中にきちんと刻み込まれているし、逆もまたそうであると信じたい。
(……中里……)
初めて自分のことを好きだと言ってくれた女の子は、それ故に凶行に走り、そして、その姿を消した。そして、自分はそれについて自分自身の目で見たわけではなく、親友や先輩の口からそれを伝え聞いただけだ。
(…だめだな。らしくもないぜ。こんなことで落ち込むなんて……)
ふと、窓から外を見ると、残雪の白と樹の黒の二色で構成されたおなじみの景色が映っている。飽きるほど見たその光景は、なぜか余計に気分を沈ませていた。
(…旅に出てえ……)
この嫌な閉塞感で満ちた雪国から少しの間だけでもいいから離れたい。いつもの自分らしくないが、そんなことを思わずにはいられなかった。
ため息をつくと、携帯電話が鳴り響いた。
「…上川?」