愚痴
大宮駅の新幹線改札口を出ると、霧矢はいったん駅の外に出ることにした。美香は当たりのテナントを物珍しそうに眺めていた。
「ねえねえ、あのパン屋さん。後で食べてみない?」
「まあ、時間的にもそろそろ昼時だし、まあ、好きにするといい。でもまあ、外の空気をちょっと僕は吸ってみたいんだ」
駅の中は非常に暖かく、上はシャツとセーターだけなのに、十分だった。それだけで、霧矢は関東地方の気候がうらやましくなった。駅の出口からペデストリアンデッキに出ると、太陽の光が地面を照らしていた。下ではタクシーが走り回っている。
「しかし、本当にいい天気だな…暮らしやすい地方だ…」
「だったら、東京に住む?」
「……その言葉は字面通りに受け取っていいものなのか?」
「その気があるなら、学校が再開するまで、私の家にずっといても別にいいのよ?」
「……遠慮しておく。そんな居候になって居心地の悪い思いをするくらいなら、残雪に埋もれた春の雪国の方がずっといい。精神的に参ってしまう」
霧矢はため息をつくと、白い駅舎を眺めた。あたりを見回すと多くの人があくせくと歩き回っている。学生は春休みなのかもしれないが、社会人にとっては基本的に関係ない。営業マンが仕事を手に入れるために空中歩道を険しい顔で歩いていた。
「我ながら、本当に暇人だな。本来、高校生がこんなことしてる暇なんてあるのか?」
「……高校生と言ってもピンからキリまでいるわ。あなたがピンなのかキリなのかはさておくとしても、別に、春休みに旅行するくらい、普通に許されると思うけれど」
「成績優秀な箱入りお嬢様はそう言うだろうさ。でも、僕の今の成績はまずいんだよ」
「…そこまで学力が低そうには見えないけれど」
霧矢は黙っていた。霧矢の目標は、あくまで国公立大の六年制薬学部であるが、現在の学力レベルのままでは非常に難しいと言わざるを得ない。私立大ならば決して不可能ではないが、それでは自分の実力を抜きにして、単に金の力だけで入ってしまったような感じがすることから、霧矢はずっと目標を国公立大に絞り続けてきた。
そして、それなりに努力もし続けてきたつもりだが、成果はまるで出ていない。数学は人並みから脱することはできず、理科も挑戦ラインに立てるか立てないかの水準だった。
「私は別に大学にこだわったりはしないけどね。こだわる必要もないし」
「良家の一人娘の仕事は、婿をもらって跡を継がせ、家を断絶させないこと。親から求められているのは、ただその一つだけってことか? お嬢様」
「あら、よくわかっているじゃない。説明する手間が省けたわ」
「……婿の候補から、僕は何としてでも外してもらいたいが」
「あら、急にわたくしの耳が聞こえなくなりましたわ。おかしいですわね」
白々しくお嬢様言葉になって美香ははぐらかした。相手が晴代だったら思い切りゲンコツを食らわせていたところだが、霧矢は何とかその衝動を抑え込んだ。美香を殴るほど霧矢も後先のことを考えない人間でもない。
「僕は……家を継ぎたい。特にどうしてもそうしたいという強い動機があるわけでもないけど、今はとりあえずそれを目標にして、高校生活を送ってるんだよ」
美香は歩き始めた。霧矢も彼女に続いて歩き出す。
「そう……ところで、私は少しお腹が減ったわ。さっきのパン屋だか、カフェレストだかわからないけれど、そこで軽食にしましょう。話の続きはそこで」
「…僕の愚痴なんか聞かせて、嫌な気分にさせちゃったか?」
「いえ、他人の悩みを聞くのも結構面白いと思うし、私はむしろもっと聞きたいわ」
微笑を浮かべた美香に、霧矢は苦笑で返した。一瞬の後、美香は霧矢の方を向いた。
「ねえ、さっきのお店って、どこだったかしら」
(…やっぱり、箱入りお嬢様は方向音痴か……)
霧矢が先導し、二人はパン屋のテナントの椅子に腰を下ろした。霧矢は席を立つと、美香にここから動かないようにと厳命すると、適当に飲み物とパンを注文する。
やがて、数個の焼き立てパンとコーヒーを持って、霧矢は美香の元に戻った。
「…しかし、騒がしい駅ね。嫌いじゃないけど、東京ってこんなに人がいたのね」
「大宮駅は東京都じゃないがな。でもまあ、人の多い駅だってことは確かだ」
コーヒーを霧矢は口に含むと、携帯電話を取り出して、適当に操作した。着信も新着メールも特に来た痕跡はなく、とりあえずは平穏が保たれていた。
「……ところで、さっきの続きだけど、結局、何でそんなにムキになって家を継ごうとしているわけ? 別に、そこまで大事ってわけでもないでしょうに」
「…他人から見たら、そう映るかもな。小さなみすぼらしい田舎の調剤薬局だし。でも、何だかんだで地域にとって大切な存在になってるし、過疎地域にとって診療所と薬局は、重要な存在だと僕は思ってる」
「博士はずっと前に、あんなものがあるから、家族が一緒に暮らせないとこぼしていたことがあるわ。本当ならば、博士は跡を継ぐ必要なんてなかったし、博士の代わりにあなたのお母様が無理に経営する必要もなかったって」
もともと次男として自由に生きる権利を約束されていた父にとって、兄の家出は二重の意味でのショックでしかなかっただろう。研究者の道を志していた父は、祖父からいきなり跡を継ぐように迫られたことで、人生の計画を大きく狂わされることになった。
「…父さんはじいさんのことがあんまり好きじゃなかったし、そのじいさんが始めた薬局だって好きじゃない。だから、そんなことを言うのかもしれないけど、僕は結構気に入ってるんだよ。地域に根差しているし、地元の人から頼りにもされてる」
「……でも、三条家がその薬局を経営しなければならない理由もないでしょう? 地域が必要としているのは復調園調剤薬局であって、三条家ではないような気もするけれど」
霧矢はムッとした表情を浮かべ、美香をにらみつけた。何も知らない人間に自分や家族の価値を否定されていい気になるわけがない。しかし、美香は冷静に答える。
「これは、単純に私だけの意見を言ったわけじゃなくて、博士がかつて言っていたことをそのまま言っただけよ。私に怒りの矛先を向けられても困るわ」
「父さんが、そんなことを本当に言っていたのか?」
「そうよ。博士が海外研究に行く直前に会ったときのことだから…ええと、何年前の話になるのかしら? でも、確かにそう私の父に言っていたわ」
三条淳史と片平義仁という親友の仲でそう言っているのだから、決して嘘ではないだろう。しかし、父が薬局に対してそこまで否定的な考えを持っていたとは思わなかった。霧矢は少し落ち込んだ気分になると、焼きたての温かいパンにかぶりついた。
決して父は美香に悪い印象を抱いていない。そして、薬局に対してはひどく否定的な考えを持っている。もしかしたら、霧矢と美香をくっつけることで、自分の人生を狂わせた忌まわしき薬局を潰せると考えたのではないか。少なくとも、潰すには至らなくとも、ただ一人の息子である霧矢を「自由」にすることはできる。
もっとも、薬局を潰すことは副次的な目的であって、あくまで目的は霧矢の幸せであるはずだ。さすがに一昔前の政略結婚のように、単に相手を財力で選んでいるわけではないだろう。あまり父親のことについてはよく知らないとはいえ、そこまでとんでもない考えを持っている人間でないことくらいは、霧矢も知っている。
しかし、父の考えは間違っている。霧矢は別に美香とくっつきたいわけではないし、薬局のことも自分を縛るものだとは思っていない。だから、そんな心遣いは無用だ。
「…結局、博士はあなたのおじい様の目論見とは外れて、薬学の研究者として立派に活躍していらっしゃるし、その方面での知名度は非常に高いわ。それなのに、先代の残したもので、本人にその気があるならばともかく、その意に反して縛り付けられるなんて、ひどく残念なことだと私は思うけれど」
霧矢は何も言えなかった。父親の真意はわからないが、少なくとも霧矢の薬局を継ぎたいという希望にあまりいい反応をしていなかったのは事実だった。
「どちらにしても、僕は僕なりに自分の人生を考えてる。父さんがどう思っていようが、僕には関係ないさ」
強がりを言った霧矢に、美香はこれ以上何も追及しなかった。美香は霧矢にゆっくりとうなずくと、そのまま、パンに口をつけた。そのまま、無言でパンを食べきると、やがて口を開いた。
「さて、結構美味しかったし、次はどこに行くの?」
「……副都心に入ったことがあんまりないと言っていたな。となると、埼京線か湘南新宿ラインに乗って、池袋方面に行くといいかな。まあ、行きたいところに行くがいい。僕は適当に付き合ってやるからさ」