対面
「……何でこうなってしまったのやら……」
「…人の電話を勝手に切るから。そう言っておくわ」
新幹線の駅の改札口で、片平美香は不愉快そうな顔で霧矢をにらみつけている。その後ろには、彼女付きのメイドであるレイこと、大崎礼子が控えている。ただ、今日はメイド服ではなく、就活中の女性が着るような黒のスーツを着込んでいた。
「寒くないのか? そんな格好で」
「寒いに決まっているでしょう! 何なのここは? 三月も後半になったというのに外は真っ白だし! 息は白くなるし! 本当にここは日本なの?」
美香は歯をガチガチと鳴らしていた。無理もない。駅の中とはいえ、暖房の効いている待合室や駅ビルから出てしまえば、体感温度は一ケタ台前半である。そんな中、関東地方の春服スタイルで耐えられる女性は少ない。
「川端康成の小説の舞台にもなった地を甘く見るなよ。スキーだってまだ余裕でできるし、この駅からゲレンデまですぐそこだ。駅から送迎バスで十分もかからないだろうさ」
寒さで震えている美香に霧矢はため息をついた。
「…天気予報を見れば、ここの最高気温が東京よりも十度以上低いことくらいわかっていたはずだろう。何でコートを着てこなかった……霜華じゃあるまいし……」
「とりあえず、東京まで来てもらうわ! 会ってほしい人がいるのと、伝えなきゃいけない重要事項があるから!」
強引に霧矢の手を引っ張ると、美香は新幹線の改札口に切符を通し、上りホームへの階段を昇って行った。しかし、ホームに出た途端、美香の表情がまた変わる。
「何て寒いのかしら……本当に何なの?」
「……当たり前だ。ホームに暖房なんか効いてるわけないだろ。冬の駅のホーム以上に体感温度が低いところなんてそうそうないぞ。ゲレンデの方がまだ暖かく感じる」
「東京駅とか品川駅だったら、とっても暖かいのだけど……」
美香がぶつぶつと不満をつぶやいていると、やがて構内放送で列車の接近を知らせるアナウンスが響いてきた。レイが二人を先導する形でホームの端まで連れて行く。
「あの…レイさん。この乗り場って……」
「グリーン車です。残念なことに最近話題となっているグランクラスは、このタイプの列車にはございませんので、ご容赦願います」
霧矢は、あの大晦日の居心地の悪さが、自分の背筋を撫で上げてくるかのような感触に襲われた。普段慣れていない、とりわけ分不相応な高級なものに触れた時の感覚だった。
新幹線がホームに滑り込み、やがて霧矢たちの目の前にドアが現れた。ゆっくりとドアが開くと、レイが先に乗り込んだ。霧矢はしばらく乗るのにためらっていたが、業を煮やした美香が霧矢の腕を引っ張ると、そのまま、幅の広い椅子が並んでいる車両に入った。霧矢を窓側の席に無理やり押し込み、美香は通路側に座った。
ついに霧矢の抵抗する気力が失せたところで、放送が鳴る。
「十二番線、上り列車が発車いたします。ドアが閉まります。ご注意ください」
発車ブザーが鳴り、ドアの閉まる圧縮空気の音とともに、新幹線は雪国を後にした。数秒と経たないうちに、長いトンネルに入り、国境を越える態勢に入った。
霧矢はシートのリクライニングを倒すと、そのまま天井を眺めた。しかし、ゆっくりとくつろごうとしていると、ヒョイと美香の顔が視界に飛び込んでくる。
「何だ。東京に着くまで時間あるだろ。寝させてくれ。僕は眠いんだよ……」
面倒くさそうに言い放った霧矢に、美香はしかめ面を浮かべる。低い声で凄んだ。
「……わざわざ私をこんな僻地まで足を運ばせたのだから、話くらい聞きなさい」
「やだ。僕だって何でわざわざあんな人ごみの町まで連行されなきゃならないんだ」
霧矢は美香から視線を逸らすと、窓の方を向いた。しかし、窓から見えるものと言えば、トンネルの壁面しかない。ただ、壁面に取り付けられた蛍光灯が、白い線になって後方へものすごい速さで飛び去っていくのが見えるだけだ。
「会ってほしい人がいるって、私は言ったはずよ。覚えていないのかしら?」
霧矢はため息をつくと、暗闇から視線を美香の方へ戻した。ついでにシートも戻す。
「そうだな。でも、どうせろくなことにならないような気がするんだ」
最初から、霧矢は今回の件を胡散臭く感じていた。呼び出すにしても、詳細は伏せておいて、詳しいことは現地で話すなどということは、何か隠しておきたいことがあるということを如実に物語っている。そして、隠さなければならないということは、ほとんどの場合、何の得にもならず、むしろトラブルの種にしかならないということでもある。
しかし、そこで霧矢はあることに思い至った。
「おい、美香。一つ聞いていいか? というか、聞かせろ」
「何かしら?」
美香は霧矢の態度が急に積極的になったことで少し戸惑っているようでもあったが、話に乗ってくれることは嬉しいと思ったらしい。質問に答えると顔で語っている。
「父さんから、僕を連れ出す許可を取ったとか聞いたが、どういうことだ!」
「ああ、そのことね。私は、根回しはする女だから」
意地の悪い笑みを浮かべると、美香はくすくすと笑った。霧矢ははらわたが煮えくり返るのをこらえながら、続けて質問する。
「どうして、家にいる母さんじゃなくて、わざわざ海外の父さんに連絡したんだよ。しかも、僕は初耳だったぞ。連絡すらなかったじゃないか!」
「だって、博士から許可をいただいたのは、つい数時間前のことだから。そのことを伝えようとしても、あなたは着信拒否しちゃったから。残念なことにね」
答えになっていない答えを口にし、すべては霧矢の責任だと言わんばかりの美香に対して、霧矢は苦々しい表情を浮かべると、彼女をにらみつけた。こんな非常識な方法をとる良家の令嬢などいてたまるかという思いだった。しかし、美香は気にすることもなく、得意げな笑顔を浮かべている。
「博士は快諾してくれたわ。物わかりのいいお父様を持てて、霧矢は幸せね」
「やかましい! 父さんは僕の最近の事情なんてまるで知らないんだぞ! この前の騒ぎだって、事の真相どころか、単に火事が起きたくらいの認識しかない!」
声を荒げた霧矢に、美香は指で静かにするようにと示した。冷静になってまわりを見回してみると、他の乗客が奇異の目で霧矢を見ていた。
霧矢は顔が赤くなるのを感じた。そのまま、窓の方を向いてしまった。
「まあ、そんなに怖い顔しなくてもいいじゃない。東京を観光できると思えば。聞けば、あなた、この前は東京の街を見て回る時間はなかったのでしょう? 今回はそのチャンスがしっかりとあるから。楽しい旅になると思うわよ?」
「東京なんか、僕はもう飽きるほど行ってるんだよ! 首都圏の地下鉄路線図は頭に叩き込んであるし、めぼしい観光スポットはもうほとんどすべて回った!」
声を抑えながらも、霧矢は低い声で言い放った。美香はため息をつくと、何やらプラスチック製のカードのようなものを霧矢の頬に当てた。
「とりあえず、こっちを向きなさい。渡しておくものがあるから」
「何だ? ICカードか?」
浦沼で暮らす霧矢にとって、テレビなどで見たことはあるものの、日常生活ではほとんど使ったことがない、非接触型の電子マネーカードだった。それもピカピカの新品。
「片平家から、お客様への誠意。とりあえず二万円チャージしてある。これさえあれば、とりあえず首都圏での足や買い物に不自由することはないはずよ。足りなくなったら、また言って。いざとなったら、私のクレジットカードもあるし」
そういうものを渡されるということは、霧矢は都内をうろうろしなければならないということを意味するし、それを美香から期待されているということでもある。
「なあ、美香。正直に言ってくれ。僕に何を期待してるんだ?」
美香の目を霧矢はじっと見つめた。しばらくにらめっこが続いていたが、やがて、美香はくすくすと笑いだした。その瞬間、新幹線は国境の長いトンネルを抜け、温暖な関東平野へ入った。窓から陽光が差し込み、一気にあたりが明るくなる。美香は光とともに口を開いた。
「本音はね。デートをしたいなって」
「……断る。僕はさっさと用事を済ませて帰るつもりだ。そんなに暇人じゃない」
「つれないお方。もう少し、レディには優しくしなさいって教わらなかったのかしら?」
「……三条家の男はみんなそんなものだ…と母さんは常日頃から言っているし、ばあちゃんもそんなことを言っていた。文句があるなら、僕じゃなくて、血に言ってくれ」
「博士は優しいわよ。あなたのおじい様がどうだったのかは、私にはわからないけれど」
霧矢は黙っていた。父親については、霧矢自身は正直よく知らないのだ。物心ついて以来、父親はずっと単身赴任で、電話で時折話すこと以外は、数か月に一度会うか会わないかの関係が続いていた。そして、家系図の上だけに存在する伯父については会ったことすらない。また、祖父についても霧矢はあまりよく知らないのだ。正直なところ、自分以外の三条家の男性陣がどんな存在かについて、一番よく知っている立場にあるはずなのに、ほとんど知らないのだ。単に母や祖母の意見を、そのまま言っているに過ぎない。
「もうどうでもいいや。とりあえず話を元に戻す。僕に会ってほしい人って誰だよ?」
「私の両親」
即答した美香に、霧矢はその意味を捉えるために、しばらくの間黙り込んでしまった。やがて、数秒の間を置いたのち、再び口を開いた。
「その真意は?」
「両親曰く、私の婚約者と会って話がしたいと」
にべもなく答えた美香に、霧矢は食ってかかった。もしも彼女の言葉が得意の冗談ではなく、真実だとしたら、何があろうとも次の停車駅で下車しなければならない。
「……おい、いつ僕とお前はそんな関係になった。そもそも、そういう話は勝手に決めていいような性質のものじゃないだろう」
「それは冗談。でも、半分は本当よ。私が興味を持っている人だから、会ってみたいと」
霧矢は美香の目を覗き込んだが、不幸なことに、嘘を言っている目ではなかった。
「…僕はまだ高校生だ。そういう話は、社会人になってからだ」
呆れたように答えた霧矢に、美香は急に真顔になって質問する。
「ときに霧矢、あなたの誕生日っていつだったかしら?」
「……七月五日だ。ちなみに、その日はかなり霧の深かった日だったらしい」
唐突な質問に霧矢はためらったが、正直に答えた。美香は満面の笑みを浮かべると、何本か指を折って口を開いた。
「じゃあ、あと一年と三か月強我慢すればいいだけの話じゃない。ご両親が反対するなら、あと三年と三か月強になるのかしら」
「法律的にはそうなのかもしれないが、僕が十八歳になろうと、二十歳になろうと、そういう話に興味はない!」
霧矢が乱暴に言い放つと、美香は表情を曇らせ、仕方がないとばかりに話題を変えた。
「ところで、その日は霧が深かったと言っていたけれど、それが名前の由来なの?」
「…たとえ、深い霧の中のように前が何も見えなくても、矢のように真っ直ぐに進むことができるように……だそうだ。今の僕がその通りの存在かどうかは別としてな」
「いい名前ね。本当にいい贈り物をあなたはご両親からいただいたわ」
「どうだろうな。空を飛ぶ矢はそのうち地面に落ちてしまうし、霧は放っておいてもそのうち晴れる。わざわざそんな風に突っ込んで行く必要があるのかどうか……」
ため息をついて答えた霧矢に、美香も同じくため息をつき返した。彼女の目は霧矢への哀れみの色を浮かべていた。霧矢はムッとして美香をにらみ返す。
「ひねくれ者ね。素直に喜べばいいのに、どうしてそんなに否定的にとらえるのかしら。矢のように真っ直ぐどころか、山道のように蛇行しているわよ。ご両親が残念がるわ」
性格について両親が残念がっていることは否定できないが、そんな風に言われてしまうと、反論せずにはいられないのが霧矢の性格でもある。
「悪かったな。どうしても、僕はそんな風にしかとらえられない人間なんだよ。そんな人間に興味を抱くお前の方が、僕からしてみたらかなり奇妙に映るけどな」
ふてくされて言い返した霧矢は、美香から視線を逸らすと、窓から関東平野を覗き込んだ。日差しは暖かく地面を照らしており、空は青く透き通っている。
「まあ、お互いの家族についての話題はここで終わりにしておきましょう。これ以上話したところで、あなたは不愉快になるだけなんでしょう?」
「……そうだな。終わりにしてくれると助かる。この話題はもう沢山だ」
霧矢は疲れたようにそう言うと、席を立った。
「あら、どこへ行くの?」
「デッキへ行く。トンネルも抜けたし、家に連絡しないと」
面倒な東京旅行はこうして幕を開けた。