5話 ミルク
まさかこんな場所で、しかも昨日の今日で遭遇するとは。
店で勝手に居眠りをしておいて、挙句の果てには八つ当たり。正直気まずい。
とはいえ、ここで知らん振りするのも感じが悪い。いや、感じが悪いのは今更始まったことではないのだが。
キタがぐるぐると考えている間に、少女が先に行動を起こした。
「昨日は、ごめんなさい」
少女はキタの前に立つと、勢いよく頭を下げた。
「あの後もお仕事があったんですよね? なのに余計なことして……本当にごめんなさい」
「………あ、いや」
確かに昨日は腹を立てていたが、ひと晩経ってようやく冷静になれた。
待っている間に眠ったのは自分だ。起こされなかったなんて、文句をいう筋合いもない。
寒いだろうからと掛けてくれた毛布を突き返すなんて――どれだけ心の余裕がないのだろう。
わかってる。いや、わかっていた。謝るべきはキタの方なのだと。
なのにこんな風に謝られたら、どうすればいいのかわからなくなる。
「別に、さ。あんたが謝る必要はないだろ」
キタは頭を掻き毟ると、居心地の悪さに視線を明後日の方へ向けた。
「どちらかというと、俺の方がさ。悪かったよ」
「……そんな」
少女は戸惑いながらも、ぎゅっとバックを抱き締める。
まさかキタが謝るとは、夢にも思っていなかったのかもしれない。
明後日の方向を睨みながら、少女がこの場を立ち去るのを待っていたが、いつまで経っても立ち去ろうとしない。
「……まだ何かある?」
最後に文句のひとつでも言いたいのだろうか。覚悟を決めると少女の方へと向き直った。
「………………ます」
バックを抱き締めたまま、何かを呟いた。
「え?」
聞こえなかったという仕草を取ると、少女は必死なくらい大声を張り上げた。
「今度は十分くらい経ったら必ず声を掛けます!」
大真面目な顔で何を言うかと思ったら。
キタは小さく吹き出した。
「……あの、どうしました?」
「いや、別に」
莫迦なのか素直なのかわからないが、底抜けにお人好しなのは確かそうだ。
「じゃあ、今度居眠りした時は頼んだ」
「……はい」
キタが笑ったせいだろう。少女もやっと表情をやわらげた。
「あの、墓守さん」
――墓守さん。
少し考えて、それが自分のことだと気がつく。
「何?」
これで話は終わりかと思っていたが、少女はまだ何か言いたいことがあるようだ。
「お名前、聞いてもいいですか?」
恐る恐る少女が訊ねる。
「名前?」
少し考えてから「墓守さん。それでいいよ」と答えた。
もったい付けるわけではないが、ただ面倒くさかった。
少女は不満そうではあったが、それ以上は追及しようとしなかった。
「わたし、高良チヅルっていいます」
「ああ」
だからどうした。
そのまま受けもせずに流そうと思ったが、少女の名字に聞き覚えがある。
「高良ってことは、あの店の?」
「はい、娘です。あと、兄がひとり」
察しがいいらしく、キタの中途半端な質問にチヅルはすんなりと答えた。
バイトかと思ったが、家業の手伝いだったのか。
「最近ですよね、墓守さんが来るようになったのって。いつからこちらに?」
いつ引越ししてきたか、ということだろうか。
「まだ半月」
「わあ、本当に最近なんですね」
そんなに驚くほどの話でもなかろうに。
「でも、よくここの図書館ご存知ですね。駅から離れてるからわかりにくいでしょう?」
「……まあ、たまたま見つけて」
何度かたわいもないやり取りをくり返しながら、キタはふと疑問を抱く。
どうしてこんなところで、主婦みたいに井戸端会議の真似をしているのだろう。
毒にも薬にもならないな話を、何故彼女はこんなにも楽しそうに話しているのだろうかと。
チヅルの話はゴミの分別の話から始まり、駅前のアイスクリーム屋のサービスデー、昼間は電車の本数が極端に少ないこと、数年前までコンビニエンスストアが朝七時から夜の十一時までしか開いていなかったこと。
次から次へと、当たり障りのない話題が飛び出してくる。
「あとうちからここに来る途中に、美味しいパン屋さんがあるんですよ。特におすすめなのがチョココルネなんです」
まだ話が続きそうなので、チヅルの鼻先に手のひらをかざし、ストップを求める。
「わかった。もう十分だから」
一瞬、きょとんとする。だがすぐにキタが何を言いたいのか悟ったようだ。
「す、すみません……」
調子に乗ってしゃべり過ぎたと自覚はあるようだ。
チヅルは羞恥で耳まで染めると、お喋りを戒めるように口を両手で押さえた。
「……あの、これ」
チヅルは手にしていたバック――生成りのトートバックに手を突っ込むと、小さな茶色い紙袋を取り出した。
「さっき話したチョココルネです」
お詫びと言ってはなんですが、とキタに差し出した。
「いいって、別に」
差し出すチョココルネの袋を拒絶すると、チヅルはますますしょんぼりとした顔になる。
しまった……。
相手は中学生だ。少しは自分が大人にならないと。
「やっぱり貰う」
無造作に紙袋に手を伸ばした。
「え……?」
チヅルは戸惑うような瞳を向ける。
「パン、くれるんだろ?」
ぼんやりしているチヅルの手から紙袋を取り上げると、中からまだ温かいチョココルネを出した。
チョコレートクリームがこぼれないように気をつけながらふたつに割る。崩れた方を口の中に放り込みながら、もう半分をチヅルに差し出した。
「はい、あんたの分」
「……ありがとう」
あ、笑った。
面白いくらい、気持ちが素直に顔に出るようだ。この少女は。
だが、どちらかというと女の子を相手にするというよりは、人懐っこい仔犬の相手をしている気分だ。
半分こしたチョココルネを、嬉しそうに頬張るチヅルを見ながら、キタはそんなことを思う。
色素の薄い、ふんわりとした髪、人懐っこそうな明るい茶色の瞳。きっと両親の愛情を一身に受けて育ってきたのだろうと、容易に想像できる。
こういう目を、キタは知っている。
彼女を見た時、どこかで会ったような、見たような気がしていたが、今、ようやくわかった。
そうだ。うちのミルクに似ているんだ。
子供の頃に飼っていた、白くてむくむくとした雑種の大型犬。よきキタの遊び相手あった愛犬を思い出す。
チヅルの人懐っこそうな大きな目は、ミルクと酷似していた。
散歩用のリードを目の前にちらつかせると、尻尾を千切れそうなほど振ってきたっけ。
そう、その時の嬉しさに満ちた目。人を信じて疑わない無垢な瞳。ついでに、少しふんわりとした細い髪も、ミルクのふわふわとした白い毛を思い出させる。
結論が出た途端、急に笑いが込み上げてくる。
「どうしたんですか?」
少し心配そうにキタの顔を覗き込む。
「別に、ちょっと思い出し笑い」
本当のことを言ったら、さすがにこのお人好しの少女でも怒るだろう。
キタは誤魔化すように笑った。