3話 眠りの丘
店からバス停へと、キタは必死に走った。
「やばかったぁ……」
走って、走って、どうにか「眠りの丘」行きの最終バスに乗り込むことができた。
乗客はキタひとりだけ。さすがにこんな時間帯に墓参りに行く者はいないようだ。
後方の窓際の座席に腰を降ろすと、どっと疲れが押し寄せる。キタは背もたれに身を預けると、ぼんやりと暗い窓ガラスに目を向けた。
窓の向こうには、塗り潰したように黒い景色。外灯もまばらな暗い道を、低い唸りを上げてバスは走る。
住宅街を通り抜け、田畑を越え、線路を渡ると、すでに辺りは人々が生活する空間とは異なっていた。 緑の芝以外に何もない丘陵地を進むと、そこはもう「眠りの丘」である。
数千もの人々が眠る「眠りの丘」は、人種も宗教も宗派も問わない広大な共同墓地。
見渡す限りの緑の絨毯を敷き詰めた、ゆるやかに起伏する大地。地平線の彼方まで続いている地表には、いくつも連なるように並んだ乳白色の墓石。それすら知らなければ、ここが墓地だと知らなければ滅びた都の遺跡のようだという。
また「眠りの丘」の夕暮れ時は大層美しいらしい。しかし名物とも言われる光景は、空気が澄んだ快晴の夕暮れ時だけにしか見れない貴重なものだという話だが、残念ながらキタもこの町に来てから一度も見ていない。
今日こそ見れるかと思っていたが、花屋で居眠りをしてしまったお陰でまた見過ごしてしまった。
幸い、今夜は目映い月が出ている。もしかしたら月明かりの下の景色というのも味があるかもしれないと窓の外を眺めていたが、いつの間にかまた船を漕いでいた。
* * * * *
「すみません、今戻りました」
事務所のドアを開くと、蛍光灯の光がひどく眩しい。室内は静かで、カタカタとパソコンのキーボードを叩く音だけが聞こえる。
カタカタという音が止んだ。一番奥にある机で作業をしていた女性が立ち上がる。
「遅い」
女性は眼鏡の細いフレームを人差し指で押し上げると、不機嫌そうに腕組みをする。
彼女の名前は加茂下マユコ。
淡いグレーのパンツスーツに、ひっつめ髪と銀縁眼鏡。少々キツイ顔立ちをしているが、十分に美人の部類に入る。地味な格好をしているから三十代くらいに見えてしまうが、実際は二十代であるらしい。
「高良さんから事情は聞きました。あちらが気を利かせてくれたからよかったものの、居眠りだなんて……少したるんでない?」
眼鏡のレンズの奥にあるアーモンド形の目が、きりりとキタを見据える。
「あー……すみません。気をつけます」
へらっとした愛想笑いを浮かべると、マユコの眉間に皺が刻まれる。
「口だけじゃなくて、本当に気をつけて下さい。春日キタくん」
できの悪い弟を叱るような口調で、マユコは念を押す。
「……すみません」
この小姑め。胸のうちで罵りながらも、キタは素直に頭を下げる。
「じゃあ今日はもいいから。お疲れ様でした」
「あ、川本さんは?」
極端に無愛想で寡黙な所長の姿がみえない。
「所長はもう帰られました。今日は定時で上がりたいとおっしゃっていたので」
「はあ」
墓守を管理する事務所には、川本所長と加茂下マユコのたった二人だ。
川本は見たところ四十代前半。ほとんど口も開かず、愛想の欠片もなく、まるで地蔵のようだな男というのが、キタが抱いた印象だ。
「……お先に、失礼します」
「あんまり夜更かしはしないようにね、新人墓守さん」
最後に釘を刺され、キタは事務所のドアを閉ざした。
更衣室で黒尽くめの仕事着から私服に着替え、屋外へ出た途端、吹きすさぶ冷たい風に身を震わせる。
安物の薄手のジャケットを掻き合わせ、背中をまるめて裏門をくぐると。
「お疲れさん」
突然声を掛けられた。
声は門の隣りに設置された、小さな守衛室からだった。初老の男が小さな窓から顔を覗かせていた。
「どうも、お先に」
軽く会釈をすると、男はにこりと笑った。
「気をつけてな」
感じがいい初老の守衛は、少し義父に似ている気がした。