「牧場娘の言うことなど聞かん」と婚約者が言うので、閲兵式の白馬のことは一度しか言いませんでした
「牧場娘の言うことなど、聞く必要はない」
ベルトラン様はそう言って、白い馬の首を、自慢げにぽんと叩いた。
メルシエ伯爵家の厩舎だった。王都でいちばん新しく、いちばん磨きあげられた厩舎で、馬房の扉には真鍮の飾り金具まで付いている。
その真ん中の馬房に、雪のような白馬がいた。
たてがみは絹糸のように細く、脚はすらりと長い。磨かれた蹄が、灯りを映して光っている。
「東方の砂漠の血を引く名馬だそうだ。メルシエ伯爵が、閲兵式のために特別に譲ってくださった。金貨五百枚だぞ。本番で毛並みひとつ汚さぬよう、当日までこうして厩舎で休ませておくのだ。君の家の茶色い駄馬とは、格が違う」
隣で、伯爵令嬢のカロリーヌ様が、扇の陰で笑った。
「父が、ベルトラン様にこそふさわしいって。ねえ、素敵でしょう、アガート様」
私は、返事をする前に、白馬の顔を見た。
白馬も、私を見ていた。
正確に言えば、私の手を見ていた。私の手袋の指先に、厩舎の入り口でもらった角砂糖が、一つだけ包んであったからだ。
白馬は、右の前脚を、ゆっくりと持ち上げた。
膝を曲げて、宙で止める。
それから、首を深く下げた。
――お辞儀だった。
ベルトラン様もカロリーヌ様も、気づかなかった。二人とも、白馬ではなくお互いの顔を見ていたので。
(ああ、この子は)
私はそっと手を伸ばして、白馬のたてがみを指でかき分けた。間近で見れば、目元にわずかな老いが滲んでいる。そして首の付け根、毛に隠れるくらいの場所に、小さな焼き印があった。
丸の中に、「P」の一文字。
私の実家は、北の牧場で三代続けて軍馬を育てている。私は字を覚えるより先に、蹄の裏の見方を覚えた。馬の耳がどちらを向いているかで、その馬が何を怖がっているのかが分かる。
そして、この焼き印には、見覚えがあった。
毎年夏になると、北の町にやってくる旅の一座。ラッパと太鼓に合わせて、馬が踊り、回り、最後に客席に向かってお辞儀をする。
ポンセ曲馬団。
あの一座の看板の白馬は、たしか、ネージュといった。
* * *
ベルトラン様と私の婚約は、親同士が決めたものだった。
ベルトラン様のラコスト伯爵家は、代々近衛騎兵に士官を出す家だ。騎兵には馬が要る。デュラン子爵家は、その馬を育てる家だ。
だから、私の価値は、たぶん最初から「馬」だったのだと思う。
ベルトラン様は、私の家の馬には乗った。けれど、私の話は聞かなかった。
「また馬の話か。アガート、王都の夜会で蹄鉄の話をする令嬢がどこにいる」
「田舎の牧場娘だと思われるぞ。僕が恥ずかしい」
そう言われるたびに、私は口を閉じた。
ベルトラン様の乗っていた栗毛が、右の後脚をかばいはじめたときも、一度だけ言って、あとは黙った。翌月、栗毛は脚を痛めて隊を外れ、ベルトラン様は「運の悪い馬だった」と言った。
言っても聞かないことは、もう分かっていた。
けれど、黙っていれば済むことと、済まないことがある。
* * *
ベルトラン様が婚約破棄を口にしたのは、その三日後、近衛騎兵隊の閲兵式を前にした夜会でのことだった。
「アガート・デュラン。君との婚約を、今夜かぎりで解消する」
大広間の真ん中で、ベルトラン様はカロリーヌ様の手を取っていた。
「君は、馬の話しかしない。王都の作法も知らない、田舎の牧場娘だ。閲兵式では、国王陛下の御前を、あの白馬で駆ける。僕の隣に立つのは、それにふさわしい人であってほしい」
くすくすと、どこかで笑い声が起きた。
「カロリーヌの父上は、東方の名馬を見抜く目をお持ちだ。君の家の茶色い駄馬とは違う」
カロリーヌ様が、勝ち誇ったように微笑んだ。
私は、膝を折って礼をした。
「婚約の解消、承りました」
それから、顔を上げた。
ここは、黙っていれば済むことではなかった。
閲兵式の大通りには、王都じゅうの人が集まる。子どもも、年寄りも。馬が驚けば、人が怪我をする。
「ベルトラン様。一度だけ、申し上げます」
広間が、少し静かになった。
「あの白馬は、東方の名馬ではありません。曲馬団の馬です。ラッパが鳴ると、踊るように仕込まれています。閲兵式で、あの馬にラッパを聞かせてはいけません」
一瞬の沈黙のあと、ベルトラン様は声を上げて笑った。
「曲馬団! 聞いたか、カロリーヌ。馬の目利きの、メルシエ伯爵の馬を、曲馬団だと」
「まあ、ひどい。父の目を疑うなんて」
「振られた腹いせにしても、もう少しましな嘘をつけ。牧場娘の言うことなど、聞かん」
ベルトラン様は、私に背を向けた。
「かしこまりました」
私は、その背中に向かってもう一度だけ礼をした。
「では、二度は申しません」
広間に、また笑い声が戻った。
ただ、壁際に立っていた背の高い騎士だけが、笑っていなかった。
* * *
翌朝、王都の外れにあるデュラン家の厩舎に、その騎士がやって来た。
黒い軍服に、近衛騎兵の銀の徽章。日に焼けた顔に、短く刈った褐色の髪。
「近衛騎兵隊長の、ルシアン・ヴァレールです」
ベルトラン様の、上官にあたる方だった。
平民の出から、剣と馬術だけで隊長まで上がった方だと聞いている。夜会ではいつも壁際にいて、令嬢たちからは「無口で怖い」と言われていた。
「閲兵式で乗る馬を、一頭お借りしたい。私の馬が、先週脚を痛めまして」
「でしたら、隊の厩舎にも馬は……」
「大砲の音と、ラッパと、群衆の歓声と。その全部の前で、眉ひとつ動かさない馬が欲しいのです。そういう馬は、隊にはいない」
ルシアン様は、少し間を置いて付け加えた。
「デュラン家の馬なら、いると聞きました」
私は、いちばん奥の馬房へ案内した。
栗毛の、ずんぐりした牝馬だった。脚は太く、首は短く、どう見ても王都の夜会向けの馬ではない。
「マロンです。十二歳。北の牧場で、雷の夜も、山火事の夜も、一度も騒いだことがありません。見た目は地味ですが」
「見た目は、どうでもいい」
ルシアン様は、マロンの鼻面に手のひらを当てた。マロンは、ふん、と鼻を鳴らして、その手に額を押しつけた。
「いい馬だ」
その言い方が、ベルトラン様が白馬を自慢したときとは、まるで違った。
帰り際、ルシアン様は厩舎の入り口で足を止めた。
「昨夜の、白馬の話ですが」
「二度は申しません、と申しましたので」
私がそう言うと、ルシアン様は、ほんの少しだけ口の端を上げた。初めて見る顔だった。
「では、私は聞かなかったことにします。……ただ、閲兵式の隊列は、隊長の私が決めますので」
「隊列、ですか」
「ラコストの中隊は、いちばん最後に回します。見物の人垣から、いちばん遠い場所を通らせる。万一のことがあっても、子どもに怪我をさせないように」
私は、ルシアン様の顔を見上げた。
この人は、聞いていたのだ。
笑い声の中で、私の言葉を、ちゃんと最後まで。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることではありません。馬の話を聞くのも、隊長の仕事です」
ルシアン様は、マロンの手綱を取って、静かに帰っていった。
* * *
閲兵式の日は、よく晴れた。
大通りの両側には、王都じゅうの人が詰めかけていた。王宮前の広場には、国王陛下の御座所が設けられ、その脇に貴族たちの席が並ぶ。
私は、父と一緒に、席の端に座っていた。
少し離れた席に、メルシエ伯爵とカロリーヌ様がいた。カロリーヌ様は、白いレースの扇を手に、通りの向こうをしきりに気にしている。
大砲が一発、空に鳴った。
近衛騎兵隊の行進が始まった。
先頭は、隊長のルシアン様だった。ずんぐりした栗毛のマロンが、ぱかり、ぱかり、と一定の拍子で石畳を踏んでいく。二発目の大砲にも、群衆の歓声にも、耳ひとつ動かさない。
「なんだ、あの地味な馬は」
誰かが言った。誰も答えなかった。答えなくても、見ていれば分かった。あの馬の背の上で、隊長の姿勢は、少しも揺れていなかった。
隊列が、次々と御座所の前を過ぎていく。
そして、最後尾。
白馬に乗ったベルトラン様が、人垣からいちばん遠い道の端を、胸を張って進んできた。
金の飾り房の鞍。磨き上げた銀の拍車。白馬の雪のような毛並みが陽の光にきらめいて、見物の人々から、ほう、と溜め息が漏れた。
カロリーヌ様が、扇を胸に当てて頬を染めた。
白馬が、御座所の正面にさしかかった。
そこで、ラッパ手たちが、いっせいに楽器を構えた。
閲兵式の締めくくりの、王家のファンファーレ。
高らかな音が、青い空に鳴り渡った。
白馬の耳が、ぴん、と立った。
(ああ)
私は、膝の上で手を握った。
白馬は、右の前脚を高々と上げた。
次に、左の前脚。
右、左、右、左。ラッパの拍子に合わせて、軽やかに足踏みを始めた。
「お、おい、止まれ、止まれ!」
ベルトラン様が手綱を引いた。白馬は止まらなかった。曲馬団では、手綱を引くのは「もっと踊れ」の合図だったのかもしれない。
白馬は、その場でくるりと一回転した。
拍車が空を切り、ベルトラン様の兜がずれた。
もう一回転。
金の飾り房が、ぶんと宙を舞った。
見物の人垣の、どこかの子どもが、手を叩いて歓声を上げた。それにつられて、あちこちから拍手が起きた。ラッパ手たちは、何が起きているのか分からないまま、決まりどおりに最後の一節を吹き鳴らした。
ファンファーレの最後の音が、空に長く伸びた。
白馬は、国王陛下の御座所に向かって、ぴたりと止まった。
右の前脚を前に出し、膝を折り、首を深く、深く下げた。
――お辞儀だった。
ベルトラン様は、ずれた兜を片手で押さえたまま、鞍の上で白馬の首にしがみついていた。白馬が頭を下げたので、ベルトラン様も一緒に、陛下に向かって深々と頭を下げる形になった。
広場が、しんと静まった。
それから、御座所の奥から、太い笑い声が響いた。
国王陛下だった。
「見事だ! これほど礼儀正しい馬は、初めて見た」
陛下の笑い声につられて、広場じゅうが笑いに包まれた。
ベルトラン様の顔は、白馬の毛並みより白くなっていた。
* * *
「ネージュ!」
笑い声の中から、甲高い女の声が上がった。
見物の人垣をかき分けて、赤い外套の、恰幅のいい女の人が飛び出してきた。北の町で、毎年見ていた顔だった。
ポンセ曲馬団の、座長のマダム・ポンセだ。祭りの興行で、ちょうど王都に来ていたらしい。
白馬は、その声を聞いた途端、鞍の上のベルトラン様をそっちのけで、とことことマダムのほうへ歩いていった。そして、マダムの手のひらに、鼻面を押しつけた。
「ああ、ネージュ、ネージュ。こんなところで、なんて立派な鞍をつけて」
近衛兵たちが慌てて駆け寄った。陛下が、片手でそれを制した。
「そこの者。その馬を知っているのか」
マダムは、陛下の前でも臆さなかった。旅の一座の座長は、度胸がなければ務まらない。
「知っているも何も、陛下。この子は、うちの曲馬団の看板馬でございます。去年、歳で踊りが少し遅くなりまして、泣く泣く手放しました。買ってくださったのは、そちらにおいでのメルシエ伯爵様。金貨二十枚でございました」
金貨、二十枚。
ベルトラン様が払ったのは、五百枚だ。
貴族たちの席が、ざわりと揺れた。カロリーヌ様の扇が、手から滑り落ちた。
「メルシエ伯爵」
陛下の声から、笑いが消えていた。
「曲馬団の馬を、東方の名馬と偽って売ったのか。血統書まで添えて」
メルシエ伯爵は、真っ青な顔で口を開けたまま、何も言えなかった。
陛下は、次に、鞍から降りて立ち尽くしているベルトラン様を見た。
「ラコスト。お前は近衛騎兵の中隊長だな。自分の乗る馬が何者かも見抜けず、偽りの血統書に金貨五百枚を払い、それで余の前を駆けようとしたのか」
「へ、陛下、私は、その、名馬だと……」
「名馬かどうかを見るのが、騎兵の仕事だろう」
ベルトラン様は、何も言えなかった。
そのとき、陛下の視線が、隊列の先頭に向いた。
「ヴァレール。お前のその栗毛は、どこの馬だ。大砲にも、ラッパにも、あの騒ぎにも、耳ひとつ動かさなかったな」
ルシアン様は、マロンの上から一礼した。
「北のデュラン子爵家の牧場の馬です、陛下。選んだのは、そちらにおいでのご令嬢です」
陛下の目が、貴族席の端の私に向いた。
広場じゅうの視線が、私に集まった。
「そなたが、あの栗毛を選んだのか」
「はい、陛下」
「では、あの白馬が踊ることも、分かっていたか」
私は、一瞬だけ迷った。それから、正直に答えた。
「三日前の夜会で、ラコスト様に一度だけ申し上げました。あの馬は曲馬団の馬で、ラッパを聞かせてはいけない、と」
貴族席のあちこちで、あの夜会にいた人たちが顔を見合わせた。
「それで、ラコストは何と」
「牧場娘の言うことなど、聞かん、と」
広場が、もう一度静まった。
陛下は、しばらく黙って私を見ていた。それから、深く息を吐いた。
「来年の近衛の軍馬は、デュラン家から入れることにしよう。……馬の目利きが、どうやら王都には足りておらんようだ」
* * *
それから、ひと月のことを少しだけ。
メルシエ伯爵家には、馬の売買の取り調べが入った。ネージュだけではなかったらしい。ほかにも何頭も、王都の貴族たちに、偽りの血統書つきの馬を高値で売っていたそうだ。カロリーヌ様は、王都の夜会に顔を出さなくなった。
ベルトラン様は、中隊長の任を解かれた。
王都の子どもたちのあいだでは、しばらく「お辞儀の騎士さま」ごっこが流行ったという。木の馬にまたがって、ラッパの真似をして、くるりと回ってお辞儀をする遊びだ。
一度だけ、ベルトラン様がデュラン家の厩舎に来た。
「なぜ、止めてくれなかった」
ベルトラン様は、ひどくやつれた顔をしていた。
「君は分かっていたんだろう。あの馬が踊ると。なら、閲兵式の前に、もっとはっきり言ってくれればよかったじゃないか」
私は、マロンのたてがみに櫛を入れる手を止めなかった。
「一度、申し上げました。広間の皆様の前で」
「たった一度だ!」
「ええ。二度は申しません、とも申し上げました」
櫛を置いて、私はベルトラン様のほうを向いた。
「ベルトラン様。私は五年間、何度も申し上げてきました。栗毛の後脚のことも、鞍の擦れのことも、蹄鉄の打ち方のことも。一度も聞いていただけませんでしたけれど」
ベルトラン様は、口を開いて、それから閉じた。
「ですから、もう、一度でいいと思ったのです」
ベルトラン様は、何も言わずに帰っていった。厩舎の入り口で、マロンが、ふん、と鼻を鳴らした。
* * *
ネージュは、マダム・ポンセのもとに帰った。
帰ったけれど、ひと月ほどして、マダムが王都の厩舎を訪ねてきた。ネージュの手綱を引いて。
「この子ね、もう踊るのはつらい歳なのよ。でも、うちの一座にいたら、ラッパが鳴るたびに踊ろうとしちゃうでしょう」
マダムは、ネージュの首を撫でながら言った。
「あんたのところなら、静かに暮らせると思って。あの日、この子のことを、ちゃんと見てくれたのは、あんただけだったから」
ネージュは、私の手袋の指先を見て、右の前脚を、ゆっくりと持ち上げた。
私は角砂糖を一つ、手のひらにのせた。
北の牧場の、いちばん日当たりのいい馬房が、ネージュの新しい家になった。
* * *
翌年の春、北の牧場に、ルシアン様が来た。
来年入れる軍馬の下見だ、と言っていた。けれど、下見は一日で終わり、ルシアン様は三日経っても帰らなかった。
四日目の夕方、牧草地の柵にもたれて、ルシアン様は言った。
「アガート嬢。一度しか言いません」
私は、柵の向こうでネージュにブラシをかけていた手を止めた。
「私と、結婚していただけませんか」
ルシアン様の耳の先が、夕陽のせいだけではなく赤かった。
柵の内側で、マロンが草を食む音だけがしていた。
「……一度しか、言ってくださらないのですか」
「あなたの真似をしてみました。大事なことは、一度でいいと」
私は、思わず笑ってしまった。
「ずるい方ですね」
それから、ブラシを置いて、柵越しにルシアン様の手を取った。
「でしたら、お返事は、私が何度でも申し上げます。はい。はい。……はい」
ルシアン様が、初めて声を立てて笑った。
そのとき、牧場の母屋のほうから、ラッパの音が聞こえた。夕方の、牛を呼び戻す合図の角笛だ。
曲馬団の賑やかなラッパとは違う、低く、穏やかな音色だった。
ネージュの耳が、ぴん、と立った。
白い老馬は、踊り出すかわりに、ゆっくりと私たちのほうへ向き直った。そして、右の前脚を前に出して、膝を折り、首を深く、深く下げた。
――お辞儀だった。
ルシアン様と私は、顔を見合わせて、それから二人そろって、ネージュに向かって頭を下げた。
(了)
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