第7話 人のふり見て我がふり直せ
長谷川さんが来なくなって、一週間が経った。
サークル部屋の空気は、彼女が来る前に戻ったはずなのに、戻ってない。何かが欠けたまま、僕たちは告白の練習を続けていた。
「では、今日の告白役は吉田だ」と田村が言う。
吉田が立ち上がり、佐藤が女子役として椅子に座る。前髪を指で整えながら、裏声の準備をしている。
「……あの、佐藤さん。俺、ずっと君のことが好きでした」
吉田の声は小さく、視線は床に向いている。いつもと同じだ。
「えっ……そんな……急に言われても……」
佐藤の裏声が響く。これもいつもと同じだ。
田村が腕組みをして頷く。「うむ。悪くない。だが、もう少し目線を上げろ。相手の目を見るんだ」
「目を……」
「そうだ。目は社会の窓だからな」
「部長、それ、チャック開いちゃってます!」と斎藤がツッコむ。
「お、同じことだ!恥ずかしがっていたら、見えるもんも見えない!」
同じじゃない。全然同じじゃない。僕はそう思ったが、声には出さなかった。
練習は続く。次は佐藤の番だ。今度は斎藤が女子役になる。
「俺……実は……前から……」
「はい? 聞こえません」と斎藉の冷静すぎる裏声。
「……好きでした」
「もっと大きな声で!」と田村。
「す、好きでした!」
声が裏返る。部屋の隅で、誰かが咳払いをした。それが笑いを堪える音だということは、全員わかっていた。
僕の番が来た。田村が女子役を務める。
「小林、お前、最近覇気がないぞ。もっと気合を入れろ」
「……すみません」
「謝るな。告白は謝罪じゃない。愛の表明だ!」
「はい」
僕は立ち上がり、田村の前に立つ。ヒゲ面の田村が、両手を膝の上で揃えて、少し首を傾げる仕草をする。
誰の真似でもない、田村オリジナルの"女子"だ。
「……好きです」
「それだけか?」と田村。女子役を忘れて、部長の顔になっている。
「それだけです」
「短すぎる! お前、この前は三千字も喋ったじゃないか!」
「あれはつい…しかも三千字も喋ってない…」
「暴走でもいい。あれぐらいの熱量が大事なんだ!」
僕は黙った。熱量。それは今の僕には、どこにもなかった。
田村が立ち上がり、僕の肩を掴む。
「小林、お前……もしかして恋をしたのか?」
部屋の空気が変わった。全員の視線が僕に集まる。
「恋だと?」と佐藤。
「詩織さんか!」と吉田。
斎藤がメモ帳を閉じて、真剣な顔で言った。「もし本当なら、これは一大事だ」
「何が一大事なんだ?」
田村が眉を吊り上げる。
「俺たちは告白の"練習"をするサークルだ。練習だぞ、小林。本番じゃない」
「……わかってるけど」
「本当にわかってるのか? お前、本気で告白しようとしてるんじゃないだろうな」
その言葉に、僕は思わず顔を上げた。
「それの何が悪いんだ…」
「悪い? 悪くはないが……」田村が言葉を濁す。
「俺たちのサークルには掟があるだろう。"彼女ができたらサークル追放"。それはつまり——」
「本気で告白することを想定していないってことか?」
僕の声が、自分でも驚くほど冷たかった。
佐藤が前髪をいじりながら言う。「いや、そういうわけじゃないけど……でも、ほら、俺たち、まだ準備が……」
「準備って何?」
「その……告白のタイミングとか、言葉選びとか……」
「それ、いつまで準備するんだ?」
誰も答えなかった。
僕は続けた。
「俺たち、いつまで練習してるんだ? もう一年近く、こんなことやってるだけ」
「それは……」と斎藤が口を開く。「恋愛は難しいからだ。簡単に成功するものじゃない」
「だから練習する」と吉田。
「準備を整える」と佐藤。
「石橋を叩いて渡るんだ」と田村。
僕は、笑った。笑うしかなかった。
「石橋を叩いて……でも、俺たち、まだ誰も渡ってないじゃないか…」
「それは……」
「叩いてるだけ。ずっと叩いてるだけ。向こう岸には、一度も行ってない」
部屋が静まり返った。
田村が低い声で言った。
「小林、お前、何が言いたいんだ」
「このサークル……"恋の練習"じゃなくて、"失敗しないための避難所"なんじゃないか?」
誰も否定しなかった。
佐藤が小さく笑った。自嘲気味の笑いだ。
「……まあ、そうかもな」
「恋愛のやり方わからないから」と吉田がぽつりと言う。
斎藤はメモ帳を開いたまま、ページを見つめている。「逃げてる……か」
田村だけが、腕組みをしたまま、何も言わなかった。
僕は続けた。
「長谷川さんが来てくれたとき、俺、ちょっと期待したんだ。本当の恋ができるんじゃないかって。でも、結局、俺は何もできなかった。避けて、逃げて、橋の手前で立ち止まってた」
「……それは、慎重だっただけだ」と田村。
「慎重じゃなくて、臆病なだけ。そうしてる間に彼女との距離はどんどん開いていく」
田村の表情が変わった。怒りではなく、何かを認めたくない人の顔だ。
「俺たちは臆病だから、練習してる。練習してれば、いつか勇気が出ると思ってた。でも……」
僕は部屋を見渡した。ホワイトボードには「告白成功のための7つのポイント」と書かれている。壁には「恋愛理論ノート」が積み重なっている。すべてが、行動しない理由を正当化するための道具に見えた。
「……練習してる間に、本番は終わってた」
「本番?」
「長谷川さん。俺、あの人のこと、好きなんだ。でも、言えなかった。練習が足りないからって、自分に言い訳してた」
佐藤が言った。「今から言えばいいじゃないか」
「もう遅い。俺、彼女を避けてた。距離を取ってた。それで、彼女も俺から離れていった」
「それは……」
「……俺、ここにいる理由、もうなくなったのかもしれない」
僕は机の上にあった「恋愛理論ノート」を手に取った。自分が書き込んだページが、いくつも挟まっている。
「このノート、全部無駄なんだ。理論なんてものは存在しない」
そう言って、ノートをテーブルに置いた。
田村が言った。
「小林、お前……」
「ごめん。俺、もうこのサークル辞める」
誰も止めなかった。
僕は部屋を出た。廊下に出ると、夕方の光が斜めに差し込んでいた。遠くで軽音部の音が聞こえる。演劇部の笑い声が響く。
僕はゆっくり階段を降りた。
石橋を叩く音は、もう聞こえなかった。
***
その夜、部屋に戻って、ノートを開いた。
「慎重さは、臆病の言い訳」「距離」、そこに新しく一行書き足した。
「練習は、行動しない理由」
書いたあと、ページを破った。破ったページを、ゴミ箱に捨てた。
でも、捨てても、言葉は消えなかった。
橋はもう、叩かなくていい。
渡るか、渡らないか。
それだけだ。
窓の外で、風が吹いた。
遠くで、誰かが笑っている。
僕は目を閉じて、もう一度、長谷川さんの顔を思い浮かべた。
「面白かった」と笑った顔。
「嬉しかった」と言った声。
そして、「距離を遠ざけちゃうよ」と静かに告げた、あの横顔。
もう一度、会いたい。
今度は、逃げないで。
今度は、ちゃんと言葉にして。
でも、もう遅いのかもしれない。
遅いとわかっていても、言わなきゃいけない。
それが、橋を渡るということだ。
僕は深く息を吸って、スマホを手に取った。
LINEを開く。長谷川さんの名前が、画面の中で光っている。
指が震える。
でも、止まらない。
文字を打ち始めた。
「長谷川さん」
送信ボタンに指を置いて——
やっぱり、消した。
まだ、怖い。
でも、明日は、送る。
明日こそ、渡る。
そう決めて、僕はスマホを置いた。
部屋の電気を消して、布団に潜る。
暗闇の中で、橋の向こうが、少しだけ見えた気がした。




