第5話 橋の手前にも三年
翌朝、目覚ましの音がいつもより遠く聞こえた。
頭の奥で、昨日の長谷川さんの声がまだ反響している。
「面白かった」「嬉しかった」——この二つの言葉が、頭の仲で何度もループする。
授業中も先生の声が遠くで水音みたいに流れていた。
ノートの上には、無意識の落書き。
「面白い」「嬉しい」「普通」「練習」「告白」昨日書いた単語の残骸を、なぞるように線でつないでいく。
面白い。
あれは、僕の“失敗”を笑ってくれたという意味なのか。
それとも、“挑戦”を面白がってくれたという意味なのか。
どっちにしても、恋愛の言葉としてはずいぶん遠い気がする。
それは多分、理科の実験か、動物園の観察対象に向ける言葉な気がする。
頭の中で“実に面白い”と白衣を着たイケオジが眼鏡を上げながら、何度もその言葉を繰り返す。
僕は彼女の中で、恋愛サンプルの一匹に分類されたのかもしれない。
昼休み、サークルのLINEが鳴った。
田村:
《今日の練習は長文告白大会だ。各自、しっかり原稿準備せよ!》
「長文告白」という単語に、長谷川さんの笑い声が重なって、胸の奥がチリチリする。
教室を抜けて、校舎横の自販機で缶コーヒーを買った。
プルタブを開けると、勢い余って少し溢れた。
あわてて袖で拭きながら、ふと、自分の“慎重さ”って何なんだろうと思った。
失敗しないための慎重さ。
恥をかかないための慎重さ。
そのどれもが、行動しない理由の言い訳みたいに思えてくる。
缶コーヒーを開ける時、何度も失敗している僕が、なぜ恋愛には臆病なのか。
石の上にも三年、という言葉がある。
本来は、辛いことでも我慢して辛抱強く続ければ、いずれ必ず報われるという意味だが、
石の上にも、ではなくて、僕の場合はたぶん橋の手前だ。
橋の手前になった途端、ただ、臆病で渡れない僕のことを指す言葉になる。
当然報われることなんてない。
ただ、川の流れを見下ろしながら、何年も足踏みしている。
その間に、向こう岸の景色はどんどん変わっていく。
長谷川さんも、いつか誰かと笑い合って、その人の“面白い”、いや“好き”になっていくのだろう。
僕はそんな姿を見ても、橋の手前から拍手して、苔でも撫でているんだろうな。
慎重すぎる恋愛は、静かで安全だ。
告白が失敗することもなければ、別れの悲しみも負わない。
サークルはサボることにした。
なんだかんだでサークルをサボるのは初めてのことだ。
校門を出たところで、長谷川さんの姿を見かけた。
遠くからでもすぐ分かる。髪を耳にかける仕草が、僕の心を撫でる。
彼女は誰かと並んで歩いていて、相手が笑うと、ほんの少しだけうなずいた。
それだけのことなのに、僕の足は止まった。
何を見ても平気なふりをするのが、僕の特技だ。
そのまま歩き出しながら、考える。
恋って、いつ始まるんだろう。
言葉にした瞬間なのか、それとも、言葉を飲み込んだときなのか。
僕はまだ、どちらもできていない。
ただ、橋の手前で立ち尽くしているだけだ。
夜、自室に戻ってノートを開く。
昨日のページには、「普通」と「嬉しかった」が並んでいる。
その下に、新しく一行書き足した。
「慎重さは、臆病の言い訳」
書いたあとで、ペンの先が止まる。
消そうか迷って、結局やめた。
その言葉だけは、なぜか残しておきたかった。
ベッドに横になり、天井のシミをぼんやり見つめる。
このまま三年ここにいれば、シミの形も愛せる気がする。
そうやって自分をごまかしながら、僕は今日も橋の手前に立っている。
苔は、もう自分にも生え始めてるかもしれない。




