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石橋を叩いて恋に落ちる  作者: はらっぱ


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3/7

第3話 備えあっても憂いあり

翌日の昼休み、調布大学の文学部棟の廊下は、いつもより少しだけ人の流れが速かった。試験前でもないのに、足取りだけが忙しい。僕は掲示板の前で、誰にも必要とされていない掲示を眺めて時間を潰していた。休み時間は短い。やることのない人間にとっては、案外長い。


「小林くん」


背後から呼ばれて、心臓がひとつ転んだ。振り返ると、長谷川詩織がいた。昨日の狸狸亭の夜が、ひと晩で現実になった顔だ。彼女は少しだけ息を弾ませて、僕の前に立った。


「昨日は、ちょっと言いすぎちゃったなって。偉そうだったよね。ごめん」


僕は急いで首を振った。否定の回数が多すぎて、肯定に見えたかもしれない。


「いや、その、全然。正論でした」


「正論で攻めるのは一番よくないよね」と長谷川さんは笑った。

それから、言いにくそうに続けた。

「お詫びってほどでもないけど、今日の放課後、私が練習相手になるよ。昨日、ああ言っておいてなんだけど…」


言葉が喉でつまずいた。


「ほ……本当に?」


「うん。見せてほしい。」


僕はうなずいた。うなずく以外の選択肢を知らなかった。


放課後、サークル部屋に集まると、田村、佐藤、斎藤、吉田の四人は、長谷川さんの言葉を僕から聞くなり、小学生の運動会みたいに騒ぎ始めた。


「俺たちの実力を魅せる時がきた!」と田村。

「本番ってことか?」と吉田。

「いや、練習の本番だ」と斎藤。

「それは結局本番ってこと?」と緊張気味の佐藤は、自分の前髪を気にしている。


「場所は教室がいい」と長谷川さんが言った。「いつもやってる場所で、見せてくれる?」


僕たちは空き教室を探した。三階の角にある、午後の授業がない教室は、午後の光がよく似合っていた。椅子と机はきちんと並び、黒板には前の時間の「民俗学概論」の板書が半分だけ消え残っている。窓の外では、風がほとんど吹いていなかった。


教室のドアを閉める音が、いつもより大きく響いた。長谷川さんは一番前の席に腰を下ろして、本を膝に置いた。僕らは教室の後ろで、やるべきことを忘れた人間のように立ち尽くした。


「じゃあ、見せてもらってもいい?」と長谷川さん。


沈黙。全員、同じ方向を見て、同じように口をつぐんだ。人は沈黙で意思疎通できるときがある。たとえば、今の僕たちの沈黙は「誰もやりたくない」であり、同時に「誰かにやってほしい」だった。


田村が先に裏切った。


「今回…告白役に指名されたのは——」


「おい…まさか…」と僕。


「——小林である!」


「小林! お前が行け!」

「お前しかいない!」

「ここで決めろ!」

「骨は拾ってやる!」


無責任な激励は、責任のない人間ほど上手い。背中を押され、押された勢いのまま、僕は教室の真ん中に立たされた。黒板のチョークの粉が、少しだけ光の粒になって舞った。長谷川さんが前の席からこちらを見る。長い髪を耳にかけ、本を抱えたまま、静かに。まっすぐ見られると、まっすぐ立てなくなる。


心臓が跳ねた。舞台に上がった役者のように、逃げ場はどこにもない。僕は一度だけ深く息を吸い、吐いた。吐いた息が、そのまま言葉になればよかったのに。


「……じゃあ、やります」


僕は言った。自分の声が、自分のものではないみたいだった。田村たちが後ろで親指を立てる。

あれはグッドラックという意味ではない。散ってこいというサインだ。


僕は長谷川さんに向き直る。教室の時計が秒針を動かす音が、ゆっくり大きくなる。手の汗の感触が、現実のすべてだった。


口を開いた瞬間、僕の舌は暴走した。普段なら「好きです」の二言で終わるはずの告白が、なぜか気合の入りすぎた長文になってしまったのだ。


「君の瞳は夜空に浮かぶ星々を凌駕し、君の笑みはこの世界にただ一つ残された希望の灯火だ。その清流のような髪はなびく度に僕の心を洗い、誰にでも優しく包み込むような心に僕はいつも助けられている。僕は凡庸で、不器用でな愚か者だが、それでも君がいないと呼吸さえ難しい! どうかこんな不束者の僕だけどお付き合いしてもらえないでしょうか!!」


言い終わった瞬間、部屋の空気が凍りついた。僕自身、何を口走ったのか理解できず、顔が真っ赤に火照るのを感じた。耳の奥で自分の鼓動がぶつかり合っている。足の裏は、床に貼りついているのに、どこかに落ちていく感覚だけが確かだった。


長谷川さんは少し黙ってから、肩を小さく揺らした。笑いをこらえた人の、控えめな動き。ほんの小さな笑みとともに、長谷川さんは言った。


「……ふふ。面白いね」


照れ隠しなのか、本気で笑われたのか、僕には判別できなかった。どちらでもよかった。笑ってくれて、よかった。


背後で仲間たちが爆発した。


「よくやった!」

「歴史的快挙だ!」

「今日は宴だ!」

「赤飯を炊け!」


彼らは肩を叩き合い、なぜか全員が勝者の顔をしていた。

あれだけ人任せにしていたのが嘘のようだ。 


「小林くん」


長谷川さんが、前の席から立ち上がった。机と椅子の間をすり抜けて、僕の正面まで来る。近い。

彼女は少し首をかしげて、言った。


「次は、もうちょっと普通のやつでいいからね」


「……普通」


「うん。今のは面白いけど、多分普通は言われた側が引いちゃうと思う。」


「練習、続けるなら、また付き合うよ」と長谷川さん。


僕は何かを言おうとして、結局「ありがとう」とだけ言った。


「じゃ、今日はここまで」と斎藤が手を叩いた。

「記録係、今の一部始終、メモっとけよ」と田村。記録係は存在しない。


長谷川さんは笑って、教室を出ていった。ドアの閉まる音が、最初よりも静かだった。残された僕たちは、誰からともなく窓際に集まった。夕方にはまだ遠い光が、校庭の端を鈍く照らしている。


「小林」と田村。「お前、今日で一皮むけたな」

「全部むけた気がするけど」

「俺、赤飯のレシピ調べとく」と佐藤。



夜になって、机に突っ伏したまま、今日の言葉を反芻した。


「やってしまった…」


あの長すぎる告白が、僕の中でくるくる回っていた。練習のはずだったが、あれは本音だった。

橋の上で足踏みしていたつもりが、気づかないうちに、向こう側に行きたがっていたのかもしれない。


明日も練習がある。意味があるかは、まだわからない。わからないから、続けられる。続けているうちに、意味があったことになってくれたら、それでいい。


石橋を叩く音はまだ止まらない。

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