第2話 狸狸亭にて、恋を語る夜
調布大学の正門の通りから少し外れた路地の奥に、ぽつんと赤ちょうちんがぶら下がっている。ちょうちんには「狸狸亭」と染め抜かれていて、その足元には信楽焼の狸が鎮座している。徳利と帳簿を抱え、腹だけがやけに頼もしい。初めて見る者は笑い、二度目からはなぜか安心する顔つきだ。僕は三度目なので、少し会釈をしてから暖簾をくぐった。
中はいつもの匂いだ。揚げ油と出汁と、古い柱が吸い込んだ時間のにおい。壁には色褪せた短冊と、誰が描いたのか分からない狸の墨絵。年齢不詳のマスターが、こちらを見もしないで「いらっしゃい」と言った。僕たちはいつもの席に陣取り、声をそろえもせずに「いつもの」と言う。マスターは背の低い棚からラベルのない角瓶を出し、氷を割り、炭酸を落として、透明の泡立つジョッキを順に置いた。
狸狸亭名物のポン酒である。ここでいうポン酒は日本酒ではなく、リンゴのような香りがする芋焼酎のソーダ割りだ。由来は、昔の常連だった狸がこればかり飲んでいたからだという。もちろん冗談だが、冗談を冗談のままにしておけるのがこの店のよさだ。僕らは笑って受け取り、ジョッキを軽くぶつけた。
部長の田村敦が、ひと口も飲まないうちに立ち上がった。
「諸君。本日の議題は“恋とは何か”。定義なくして練習はできない!」
「お前はまず座れ」と斎藤廉が言う。教育学部らしい落ち着いた口調だが、早く議論したそうにソワソワしている。
「恋って、“並んで歩きたいかどうか”じゃない?」と経済学部の佐藤隼。軽い。軽いが、案外遠くもない。
「まず目を見て話せるかどうかだよ」と僕。言ってから、我ながら急に現実的すぎて汗をかいた。目を見て話せたことなんてほとんどない。
工学部の吉田航は、串カツの皿を見つめたまま「手が触れたときに引っ込めない勇気」と小声で言い、誰よりも顔を赤くした。
くだらないのに、誰も笑わなかった。全員、笑えないくらい本気でバカだったからだ。マスターが煮込みを置き、ゆっくりと「はい、ポン酒追加」と言う。氷がちいさく鳴った。
「で、斎藤。お前は?」と田村。
「……相手の歩幅に合わせられるか、かな」
「さすが教育学部。優等生だな」
「斎藤、そもそも、隣で歩ける時点で恋は実ってるじゃないか」
「いや、部長…歩幅って比喩的表現じゃないか?」
「なんだ? なんの歩幅なんだ? 斎藤」
「それは分からない」
「そうか。それなら練習するしかないな!」と田村は胸を張った。「発声、間、目線、手の置き場。すべては鍛錬により——」
「定義なかったら練習できないってさっき言ったばかりじゃ?」と吉田がツッコむ。
「じゃあ、君はわかるのかね?」
「相手の手と触れるか触れないかの幅。如何に自然に本屋さんで触れるか。その幅のことですよ」
「どれだけ手触れたいんだ」と僕はツッコんだ。
そんな不毛な議論をしていると、引き戸が鳴って、外の冷たい空気がひとかたまり店内に泳ぎ込んだ。
「やっぱりここにいたんですね」
長谷川詩織だった。コートの襟を指で押さえ、肩のトートバッグが小さく揺れる。僕ら五人はほぼ同時に姿勢を正し、そして同時にぎこちなくなった。誰も彼女が来るとは思っていなかったのだ。
「空いてます?」と彼女。
「も、もちろんだとも!」と田村が即答し、ジョッキを倒しそうになった。佐藤が慌てて受け止め、泡が少しこぼれ、吉田が「もったいない」と言い、斎藤が紙ナプキンを差し出す。僕は椅子を引こうとして、思いきり音を立てた。
彼女は「失礼します」と腰を下ろし、テーブルのジョッキを見た。
「みんな何飲んでるんですか?」
「ポン酒だ!」と田村。「昔の常連が狸で——」
「冗談です」と僕は反射的にかぶせた。彼女は笑って、「いい冗談ですね」と言った。マスターが新しいジョッキを置く。彼女は恐る恐る口に運び、少し目を丸くした。
「リンゴみたいな風味! 危ない味」
「危ない」という言葉に僕らは全員、わずかに背筋を伸ばした。
「で、何を話してたんですか?」と長谷川さん。
田村は待ってましたとばかりに、「恋とは何かを定義していた」と胸を張る。
「恋の定義…なるほど。それは皆さんはなかなか深い議題ですね。ちなみに皆さんいつ恋を感じると思いますか?」
「い、いつ?」
全員が全く同じリアクションをした。
吉田は、ジョッキの持ち手を撫でながら言った。「手、繋ぎたいなって思うとき」
佐藤は、「その、メッセージ来たらすぐ返したいとか、返事が遅いと不安とか、そういう……」と尻すぼみになった。
「……一緒にいると、自分の悪いところがやたら気になるとき」と歩幅の大きい斎藤が言う。
田村は、「守りたいと思うことだ!」と大仰に言って、守れていないポン酒の泡をまたこぼした。
僕は順番が来たのを感じた。言葉が散らばって、どれも頼りない。「目を合わせられるか。合わせたら、逸らしたくないか」と言い、逸らしながら言った。
彼女は、ほんの少しだけ笑った。笑い方がやわらかい。僕らはその笑いに、全員で同時にやられた。誰も言葉を継げない。ジョッキに残る泡が小さく弾けた。
「練習で、恋ができるようになりますか」と長谷川さんが言った。
「できるはずだ!」と田村は即答した。
「何事も勉強は必要です!」とどこまでも教育学部らしい斎藤。
「僕は、少しはできるようになると思う」と僕。「少なくとも、何もしないよりは、言葉が出やすくなる」
「でも、本番で出る言葉って、だいたい練習してない言葉じゃないですか?」と長谷川さん。
誰も反論できなかった。たしかに、そうかもしれない。たしかに、そうであってほしくもない。僕たちは練習してきたのだ。練習してきたことが、意味のないことだと信じたくない。
「もし失敗するって分かってても、言うんですか?」と彼女は続ける。
田村は、「言う!」とまた即答した。即答の速さだけは世界レベルだ。
「怖いけど、言う」と佐藤。言った直後に、声が裏返った。
「言ってから後悔したほうが、言わずに後悔するよりマシ」と斎藤。自分に言い聞かせるように。
吉田は「言う、と思います。たぶん」と小さく言った。最後の「たぶん」が、吉田だった。
僕は、言葉を探した。やっと見つけて、口に出した。「……言えたら、いいな」
それを聞いて長谷川さんは、ジョッキを両手で包むように持ち直した。指が氷に触れて、少しだけ震えたように見えた。見間違いかもしれない。彼女は言った。
「私は、練習そのものはいいと思うんです。安心するから。でも——」
少し間を置いた。僕らは全員、その間を飲み込んだ。
「恋って、相手あってのことですからね。練習よりも相手との関係性を深める方が良いと思います」
全員俯いた。そんな正論で言われてしまっては、もう何も言い返すことはできない。
わかっている。わかっているさ。
相手もいないのに練習を重ねている。
その不毛な活動に、僕たちは意味を見出している。
見出そうとしているのだ。
しかし、僕たちは真の童貞。
「シン・童貞」なのだ。
女子一人が輪に入っただけで、普段の口調は崩れ、どぎまぎしてしまう。
僕たちは心の底では、わかっているのだ。
恋とは無縁であることを。
だから、誰も告白という本番をしたことがない。
いや、する気自体がないのかもしれない。
このサークルには一つの掟があった。
彼女ができたらサークル追放
静かになった。店の奥でテレビが小さく笑い、どこかの席で箸が落ちる音がして、すぐに拾われた。マスターが「閉店までもう少し」とぼそりと言う。
会計のとき、マスターが少しだけ値引いて「今日は狸の奢り」と言った。
僕らは狸に同情でもされたのだろうか。
店を出ると、路地の冷気が酔いの表面をきゅっと締め、赤ちょうちんの文字が風と一緒に揺れた。
信楽焼の狸は、さっきと同じ顔をしていた。少しだけ位置が違うような気もしたが、気のせいだ。気のせいを信じる才能だけは、僕たちにある。
商店街を大学の方へ歩く。外灯の間が長く、歩幅がばらつく。前を歩く長谷川さんが、ふいに振り返った。
「お疲れさまでした」
それだけ言って、曲がっていく。僕は「お疲れ」と返そうとして、空振りした。そこまで僕は度胸がない人間なのだ。
田村が隣で言った。
「よし、次回は実地演習だ。夕方の校舎裏、各自告白の内容を考えてくるように」
田村は振り絞るように、普段の口調を戻し、自分を鼓舞するようだった。
「勝手に決めるな」と斎藤。
「我々はいつも通り活動をするまでだ」と佐藤。
僕らは少しだけ笑った。笑えるうちは大丈夫だ。たぶん。
部屋に戻って、机に突っ伏したまま、さっきの会話を反芻した。
橋のこちら側で、僕は相変わらず叩いている。叩けば音がして、音がすると、少しだけ安心する。向こう岸の気配はまだない。ないけれど、いないと決めつけたくもない。
布団に潜り、目を閉じる直前に、信楽焼の狸の腹がちらりと浮かんだ。頼もしいのは腹だけで、あとは冗談みたいな顔だ。ああ、あれくらいでいいのかもしれない。冗談みたいに笑って、真面目にバカをやる。そういう夜なら、明日も続けられる。
明日は練習がある。意味があるかは分からないけれど、ないとも言い切れない。そういう曖昧さの上で、僕たちは足踏みし続ける。足踏みの音は、橋を叩く音に似ている。




