第13話 狸狸亭にて
学園祭の翌日、夕暮れ時。
僕たちは久しぶりに、あの赤ちょうちんの下に集まった。「狸狸亭」の文字が風に揺れて、信楽焼の狸が僕たちを出迎えてくれた。今日はいつもと違って、六人での集まりだった。
暖簾をくぐると、いつもの匂いが鼻をくすぐった。揚げ油と出汁と、古い柱が吸い込んだ時間のにおい。年齢不詳のマスターが、こちらを見もしないで「いらっしゃい」と言った。
「いつもの席、六人で」と田村が言うと、マスターは「おや、今日は人数多いね」と少しだけ驚いたような声を出した。
僕たちはいつもの席に座り、田村が「ポン酒、六つ」と注文した。マスターは背の低い棚からラベルのない角瓶を出し、氷を割り、炭酸を注いで、透明の泡立つジョッキを順に置いていった。
長谷川さんが初めて飲んだ時と同じように、恐る恐るジョッキを手に取って一口飲んで、「やっぱりリンゴみたいな味」と笑った。
田村が立ち上がった。いつもの癖だ。
「諸君!」
「座れ」と斎藤が即座にツッコむ。
「いや、今日は立たせてくれ」と田村が真面目な顔で言った。「本日は、我が告白練習サークル始まって以来の快挙を祝う会だ」
「快挙って……」と僕。
「小林の大成功だ!」と田村がジョッキを掲げた。「公開の場で、見事告白を成功させた!これは我々の誇りだ!」
佐藤、斎藤、吉田もジョッキを掲げる。
「乾杯!」
「乾杯!」
ジョッキが軽くぶつかり合って、泡が少しこぼれた。長谷川さんも笑いながらジョッキを掲げて、僕たちと一緒に「乾杯」と言った。
一口飲んで、佐藤が前髪をいじりながら言った。
「しかし小林、お前、よくあんな長い告白できたな。俺なら途中で噛んでる」
「勢いでいくしかなかった」と僕は笑った。
「でも、めちゃくちゃ感動した」と吉田が串カツを頬張りながら言う。「特に『橋から落ちてた』ってところ。あれは名言だ」
「名言って……恥ずかしいからやめてくれ」
斎藤がメモ帳を開いて、「一応、全文記録してある」と言った。
「お前、いつ記録したんだ!?」
「動画見ながら文字起こしした」
「マジか……」
長谷川さんがくすくす笑っている。「小林くん、有名人だよ。SNSでバズってたもん」
「見ないようにしてる……」
田村が煮込みを箸でつつきながら言った。「しかし、長谷川さん。よくあんな嘘を思いついたな」
「え? あ、はい……」と長谷川さんが少し照れたように笑った。「小林くんが動かないから、焦らせようと思って」
「作戦勝ちだな」と佐藤。
「でも、嘘なんてほんとはつきたくなかったでしょ」と斎藤が真面目な顔で言う。
「まあ……そうですね。でも、動いてくれたから、結果オーライです」
長谷川さんが僕の方を見て、微笑んだ。僕は少し照れくさくて、ポン酒を一口飲んだ。
「それにしても」と吉田が言った。「小林がゴールしちゃったな」
「ゴールって言うな」と僕。
「いや、ゴールだろ」と田村が笑った。「告白が成功して、彼女ができた。これ以上のゴールがあるか?」
「でも、ゴールじゃなくてスタートだと思うけどな」と長谷川さんが言った。「これから、ですよね」
その言葉に、僕たちは全員が頷いた。
田村がジョッキを置いて、腕組みをした。
「さて。小林がゴール……いや、スタートを切ったわけだが」
「俺たちはどうするんだ?」と佐藤が続ける。
沈黙が落ちた。全員が、少しだけ視線を逸らした。
「練習、続けるか?」と吉田が小さく聞いた。
「続けても……もう意味ないんじゃないか?」と斎藤。
「意味ない……か」と田村が呟いた。
僕は、彼らを見回した。一年近く、一緒に練習してきた仲間たち。告白の練習という名目で、実は恋から逃げていた仲間たち。でも、その練習があったから、僕は今ここにいる。
「意味はあったよ」と僕が言った。「少なくとも、俺には」
「小林……」
「練習があったから、俺は告白できた。お前らがいたから、勇気が出た」
田村が少しだけ笑った。「そうか。なら、練習してきた意味はあったな」
「でも」と佐藤が言った。「これからは、練習じゃなくて本番だよな」
「本番……」と吉田が呟いた。
「そうだ」と田村が頷いた。「もう、練習はいらない。本番に行くんだ」
斎藤がメモ帳を閉じた。「じゃあ、告白練習サークルは……」
「解散だ」と田村が言った。
全員が、田村を見た。
「解散……本気か?」と佐藤。
「ああ」と田村が頷いた。「小林が証明してくれた。練習よりも、本番が大事だって。石橋を叩くよりも、渡る勇気が大事だって」
吉田がポン酒を一口飲んで、「そうだな」と言った。「俺たちも、そろそろ動かないとな」
「動く……って、お前ら、誰か狙ってるやついるのか?」と僕が聞いた。
佐藤が前髪をいじりながら、少し照れたように言った。「実は……いる」
「マジで!?」
「食堂で、よく見かける子がいて……話したことはないんだけど」
「じゃあ、話しかけろよ」と田村。
「いや、それが……どう声かけていいか……」
「簡単だ」と田村が胸を張った。「『よかったら、ポン酒一緒に飲みませんか?』と言え」
一同、固まった。
「それ、絶対笑われるだろ」と斎藤がツッコむ。
「いや、でも……面白いかも」と長谷川さんが笑った。
「笑われてもいいんだよ」と佐藤が自分に言い聞かせるように言った。「笑ってくれたら、そこから話せる」
「おお、佐藤、成長したな」と吉田が肩を叩いた。
「吉田はどうなんだ?」と僕が聞いた。
「俺は……マチアプ始めようかと思ってる」
「おお、現代的だな」と斎藤。
「うん。工学部、女子少ないから……出会いを広げようかなって」
「いいじゃないか」と田村が頷いた。「行動することが大事だ」
「斎藤は?」と佐藤が聞いた。
斎藤は少し考えてから言った。「実は、教育実習先で気になる先生がいて……」
「先生!?」と全員が声を揃えた。
「いや、まだ若い先生なんだけど……俺、勇気を出して話してみようかと」
「おお、斎藤もか」と田村が嬉しそうに笑った。
「田村は?」と僕が聞いた。
田村は少しだけ黙ってから、ジョッキを置いた。
「俺は……まだ決めてない」
「え?」
「でも、これからは探す。練習じゃなくて、本気で」
田村がジョッキを掲げた。
「諸君。我々、告白練習サークルは本日をもって解散する!」
全員が、ジョッキを掲げた。
「これまでの練習、無駄ではなかった。小林が証明してくれた」
「でも、練習はもう終わりだ。これからは、本番だ。それぞれの恋を、それぞれの方法で、掴みに行くんだ!」
田村の声に、いつもの大仰さがあったが、今日は本気だと分かった。
「乾杯!」
「乾杯!」
ジョッキが再び軽くぶつかり合って、泡が弾けた。
長谷川さんが、小さく拍手した。「みんな、頑張ってください」
「ありがとうございます」と佐藤。
「長谷川さんも、小林をよろしく頼む」と田村が笑った。
「はい。任せてください!」
僕は少し照れくさくて、串カツに手を伸ばした。
夜が更けて、僕たちは狸狸亭を出た。会計の時、マスターが「今日は狸の奢り」と言って、少しだけ値引いてくれた。
「狸も祝ってくれてるのかぁ。俺たちのことを」と佐藤が笑った。
「マスターは粋だね」と斎藤。
赤ちょうちんの下で、僕たちは立ち止まった。信楽焼の狸は、相変わらず腹だけが頼もしく、こちらを見ていた。
「じゃあ、これで解散だな」と田村が言った。
「まだ大学には通うんだから、解散って言い方も変だけどな」と吉田。
「でも、サークルとしては、これで終わりだ」と斎藤が言った。
僕は、三人を見た。一年近く、一緒にバカなことをやってきた仲間たち。
「ありがとう、みんな」と僕が言った。「お前らがいなかったら、俺、まだ橋叩いてたと思う」
「礼なんていいよ」と佐藤が前髪をいじりながら笑った。
「俺たちこそ、小林に勇気もらった」と吉田。
「そうだな」と斎藤が頷いた。「お前が渡ったから、俺たちも渡れる気がする」
田村が僕の肩を叩いた。
「小林。お前は、よくやった」
「田村……」
「これからも、長谷川さんを大事にしろよ」
「……もちろん」
田村が、長谷川さんに向き直った。
「長谷川さん。こいつ、不器用で臆病で、すぐ石橋叩きたがるけど、本当はいいやつです。よろしく頼みます」
「はい」と長谷川さんが笑った。「大事にします」
「よし。じゃあ、本当に解散だ」
田村が手を差し出した。僕たちは、その手に自分の手を重ねた。
「告白練習サークル、解散!!!!」
「解散!!!!」
手を離して、僕たちはそれぞれの方向に歩き出した。
佐藤は「じゃ、俺、明日食堂行ってくる」と言って、
斎藤は「俺も、実習頑張るわ」と言って、
吉田は「アプリ、今夜登録する」と言って、
田村は「俺も、探してみる」と言った。
「またな!」
「また!」
僕と長谷川さんだけが残された。
二人で、商店街を歩く。外灯の間が長く、影が伸びる。
「みんな、いい人たちだね」と長谷川さんが言った。
「うん。バカだけど、いいやつらだ」
「小林くんも、あのサークルがあってよかったね」
「……うん。練習は意味ないって思ってたけど、やっぱり意味あった」
「どんな意味?」
「あいつらがいたから、一人じゃなかったから、勇気が出た」
長谷川さんが、僕の手を握った。
「これからは、私がいるよ」
「……ありがとう」
僕たちは、夜道をゆっくり歩いた。
もう、石橋は叩かない。
もう、橋の手前で立ち止まらない。
僕には、一緒に渡ってくれる人がいる。
それだけで、十分だった。
振り返ると、狸狸亭の赤ちょうちんが、遠くで揺れていた。
信楽焼の狸は、きっとまだあそこで、腹を撫でながら笑っているんだろう。
僕も、少しだけ笑った。
「どうしたの?」と長谷川さん。
「ううん。なんでもない」
「本当に?」
「うん。ただ……幸せだなって」
長谷川さんが、少し照れたように笑った。
「私も」
二人で歩く、この道。
これが、僕たちの物語だ。
石橋を叩いて、恋に落ちた物語。
そして、これから続いていく物語。




