立派な学者のクソどうでもいい、ゆるふわエッセイ
先程、フェミニストでシェイクスピア研究者の北村紗衣が「学校では教えてくれないシェイクスピア」という本を出しているのを知った。
私はシェイクスピアが好きなので、北村紗衣がシェイクスピアについての本を出すと聞いて、あたかも自分の好きなものが汚い手で触れられているかのような印象を持った。知らなきゃよかった、と後悔した。
私は最近、江川卓版の「カラマーゾフの兄弟」を買い、そこで「解説」を書いている頭木弘樹という人をはじめて知った。この人は「文学紹介者」らしい。(ちなみに、この人に対する批判は「最近の再刊された古典の解説がひどい件」という文章に書いている)
頭木弘樹という人の「カラマーゾフの兄弟」の解説があまりにひどい、というより一行たりともまともに解説せず、頭木氏のどうでもいい私的な文章を読まされた私は、腹を立ててこの人物について調べてみた。するとこの人がベストセラーの編集者だとわかった。エッセイ本を出しているのも知った。
最初に出した北村紗衣と共通する事だが、北村紗衣もエッセイ集というか、とにかく軽い、読みやすい文章の本を出している。
また、私が興味深く感じたのは頭木弘樹の本の推薦文を伊藤亜紗という人文系の学者が書いているという事だ。
伊藤亜紗に関しては私は書店で(ふーん、最近の人でヴァレリーの研究をするなんてちゃんとした人なのかな)と思って、彼女の本を手に取ったが、良くないなと感じて本棚に戻した思い出がある。もっとも、ものすごくうっすらとした記憶なので、この先調べ直して、伊藤亜紗がヴァレリーの哲学に深く食い込んだ優秀な学者だったとしたら、あとで謝罪するつもりでいる。
さて、頭木弘樹という人の紹介文を、人文系の伊藤亜紗という人が推薦文を書いている。まあ、頭木弘樹の推薦をしている段階であまり良くない空気は感じるのだが、Amazonで検索すると、この人もゆるい感じのエッセイ本を出している。身体論をゆるく語る、のような感じらしい。
これらの人、北村紗衣、頭木弘樹、伊藤亜紗、という人はよく似ているな、と私は思った。
何が似ているかと言えば、文学とか、シェイクスピアとか、ヴァレリーとか、カフカとか、要するに何やら難しそうな「文学っぽいもの」を専門としている、肩書が立派な学者だったり、ベストセラーを出した編集者だったりが、一般向けに「ゆるいエッセイ」を出している、という事だ。
「肩書のちゃんとした権威のある人」が大衆向けの「ゆるい文章」を書いているわけだが、これは以前から言っている"学問の形骸化"に他ならない。
もちろん、ちゃんとした立派な学者が一般向けの文章を書く、というのは昔からあったわけで、私もそういう文章は読んできたし、そうした本に多大な知的恩恵を受けている。ただ概してそういう文章は一般向けに、「わかる文章」で書かれてはいるが、結局は難解なのである。
何故難解なのかといえば、学問の本質が難解だからだ。これは当たり前の話で、「一般向けにわかるように教えろ」といくら言われたところで、難しいものを簡単にする事はできない。そもそも一般人がすぐに理解できるものなら、何故学問が深い体系として成立するのかがわからない。
哲学者のカントは「純粋理性批判」という難解な哲学書を出した後、「難しくてわかりにくい」という指摘を受け、わかりやすくて短い「プロレゴメナ」という本を出した。しかし「プロレゴメナ」もわかりにくい、難しい、と読者に言われ、さすがのカントもさじを投げたと言う。
しかし私はカントの哲学を復習する時にはプロレゴメナを読む。カントに関する基本的な知識を教わった後、プロレゴメナを読むと、たしかに、純粋理性批判の大事なところが要約されている。
もちろん「プロレゴメナ」は現代の学者の書くゆるふわエッセイと同次元に論じられる事はない。単に哲学の古典として読まれるだけである。カントからすれば一般向けの本を書いたつもりだったのかもしれないが、本質が難しいのでそれ以上簡単にしようがなかったのだろう。
※
カントでは高級すぎるというのであれば、私は、昔よくテレビに出ていた数学者の森毅のエッセイなんかが面白かった。
森毅はそれこそゆるふわエッセイのような雰囲気で書いているのだが、内容的には低くない。また、色々な解釈の仕方に森毅の個性が滲み出ており、私は全てに賛同というわけではないが(そう読むんだ、そう考えるんだ)と楽しく読む事ができた。
ここまでつらつらと文章を書いていて、私が何を言いたいかと言うと、そもそも今の学者は肩書だけが立派で中身のない人物が多すぎるという事である。そしてそうした人物に限って、一般向けのエッセイを出したりする。
しかし考えてみればこれはそんなに変な事ではない。そもそも優秀な学者ではないのだから、多少、勉強ができるとか、求められるような論文を書けるとかいった能力を除けば感性は一般人と大差ない。そこに違和感はないだろう。
要するに肩書だけが立派で中身のない学者が、学問という高みに自分の足で登る気がない、地べたに寝そべり、(努力すんのめんどくせー、全部三行で言えや)という怠惰な人々に、自分から降りていってあげるのである。偉い。
こうする事でどういうメリットがあるか。真面目に学者をしても得られないような、ある程度の人気とか、どこかのイベントに呼ばれるとか、若干の金銭、SNSのフォロワーが増えるとか、そういった事が起こるだろう。テレビに呼ばれるかもしれない。
一般人の方では、よくわからない難しい本を読みたくはないが、なんとなく知的なものを聞きかじって箔をつけたい、ぐらいの人達に対して、立派な肩書の人達が(昔のように必死に本を読んで熱く議論する、そういう時代はもう終わったんだよ、ゆるふわで楽しい私達が最高なんだよ)という福音を与えてくれる。
今、私は冗談で「福音」と言ったのだが、しかしこれは本当に「福音」かもしれないなと思う。
福音は次のように囁く。
(いいんだよ、そんなに肩ひじ張らなくて。頑張らなくていいし、難しい本を読む人はカッコつけているだけで、中身は私達と一緒なんだよ。
ああした人達はかわいそうな人達なんだよ。それに対して私達は昔の作家のように本気で争ったりしないし、互いに互いを認め合う優しい存在なんだ。
紫式部は腐女子だし、カフカはメンヘラで、ニーチェは私達を肯定してくれる応援団。過去の哲学者ってよく読めばみんな私達に生きる力を与えてくれる素敵な人達で、別に原書を読む必要なんかない。
私達が三行で教えてあげるから、それを読めばいいんだよ。マンガでもいいんだし。サブカルを馬鹿にして、難しい本をしかめつらして読む愚かな時代は終わって、ゆるふわ・多様性を大切にして、みんなひとつに溶け合う素敵な時代が来たんだよ。だから、自分は賢いと勘違している気持ち悪いおじさん達は排除して、私達だけで幸せになっていいんだよ………)
福音はこんな風に囁く。それにしても、昔の学者にあった教養の土台というのが今は完全に消えたという印象を私は持っている。完全に底が抜けてしまった。
昔、中村元と伊東俊太郎の対談を読んで(うーわ、昔の学者はレベル高かったんだなあ)とつくづく思ったが、今はもうそういう人はいない。
別に素晴らしいとか、ずば抜けているとは思わないが、その最後の生き残りが養老孟司なのだろう。この世代が亡くなったら、我々に残るのは、形だけの学歴、経歴、内容の裏打ちのない賞状と一般向けのゆるふわエッセイという事になる。こうなったらもう大学は何のためにあるのか、さっぱりわからないという事になる。