一.私の不幸の訪れ方
彼がいつ現れて、いつ振りかざされたのかは分からない。だけどいつもより一時間も早く目を覚ました平日の朝、ベッドの縁に腰掛けて欠伸をする姿を見たことは確かだった。
「俺の姿は老松さんにしか見えないんだ」
ユーフォニアムの音色のように、丸く穏やかな中低音が鼓膜を揺らす。寝起きの靄がかかったような思考がクリアになっていって、非現実的な現実を、呆然と受け止める。まだ夢でも見ているのだろうか。
彼は貧血の吸血鬼のような、青白い素肌を持ち、レースカーテン越しの日差しに目を細めている。髪は色素が抜け切って星のようにきらめいていて美しく、物語で語られる王子様のようだった。そんな彼は、私の名を知っている。
「私の名前を知っているの?」
「知ってる。あなたは老松やよいさんで、先日二十八歳になったばかりの女の人」
「どこかで会ったことがある?」
「会う、というより。俺は老松さんから生まれたものだから」
彼の物言いに、頭の中の疑問符は消えなかった。不審者の三文字が脳裏をよぎるけれど、心当たりは一つもない。社会に属して、労働の義務を果たして、万年床に身体を横たえる生活は、もう五年も同じ調子だ。恨んだことはあっても、恨みを買うようなことをした記憶がない。それほど他者と深く関わり合いになっていないのだ。
「君の名前は何?」
私の尋ねに、彼は口角を優しく上げた。風の吹くような優しい声で、「俺は」と口を開く。
「不幸。俺は老松さんの不幸だよ」
ふこう。それをどのような文字で表すかは分からなかったけれど、頭に浮かぶのはふしあわせの漢字二文字だった。
「ふこう」
「そう。ふしあわせと書いて不幸。老松さんの日々の積み重ねで、俺はこうして舞い降りて来たんだよ」
不幸の言葉の意味は、理論が全く通っていないのに、不思議と理解ができてしまう。私の日々があまりにも不幸で、不幸はこうして具現化した。ありふれた創作物にありそうな設定だと思いながらも、疑念を抱くカロリーが特別残っているわけでもない。ただ、不幸は舞い降りてくるのだなと、その発祥を理解したばかりだった。
「不幸はどうすれば居なくなる?」
「老松さんが不幸で無くなったら。だからまあ、長い付き合いになると思うし、これからよろしくね」
不幸は手を差し伸べる。無責任な口ぶりに苛立って、私はそれを躱した。「住み着くなら家賃を払ってね」と言うと、「俺は老松さんにしか見えないから、働くことができない」と否定される。ため息を吐くとぐう、とお腹が鳴る音がして、ベッドから起き上がる。
「俺、食事が必要なんだ」
だから朝ごはんを作ってよ。不幸はそう言って、自身のお腹に手を当てる。とんでもない不幸に巻き込まれたと思いながら、もう一度ため息を吐くのだった。