春の陽光の下で
鏡面空間、というらしい。私は城の中にいて、豪奢なシャンデリアが頭上にあるダンスホールで、屍者の頭部を切り飛ばす。次々と迫りくる屍者の群れを搔い潜って、階段を駆け上がる。廊下の先に見つけたドアを開き、私は室内へと飛び込んだ。
敵の大群が、私の背後で空間ごと、ガラスのように音を立てて砕け散る。背後のドアは消えて、目の前には異様に長い廊下が続いていた。ドアからドアへ移動するたびに、広大な城の部屋や廊下へでたらめに繋がっていくのが、私が封じ込められている鏡面空間の特徴である。
別の空間へ移動するたび、私が戦いで負ったダメージもリセットされる。そういう仕様だ。ここは地上の世界や時間からは切り離されていて、留まれば永遠に生き続けることさえ可能らしい。留まらずに屍者と戦い続ける私は、死ねば蘇生もできずに終わりである。
覚悟の上だ。ここに留まるつもりはない。あの女を殺す。それが唯一、私が地上へ戻る手段である。
鏡面空間の中で、主観的な時間は流れる。ドアからドアへ、空間から空間への移動を繰り返し、そのたびに一つずつ空間は砕け散った。彼女が作った鏡面空間も無限に続く訳ではない。破壊を繰り返せば、いつかは空間の創造主へと辿り着くはずだった。
破壊した空間の数が十二万と七千を越えた頃、ついに私は標的のいる部屋へと到達した。ここは、寝室だ。
「ようこそ、ようこそ。まさか本当に、ここまで来るなんてね。年単位の時間を体感してまで、貴女は私に会いたかったのかしら。光栄だわ」
ベッドから降りて、ネグリジェ姿の彼女が絨毯の上に素足で立った。年齢十才の少女の姿。十年前と全く変わっていない。吸血鬼になるというのは、人の摂理から外れるということであった。
「貴女を殺さないと、ここから出られないのでね。決着をつけましょう」
「それは順序が逆だわ。私が鏡面空間に入ったのは貴女から逃れるためよ。その私を貴女は追って、ここまで来た。……私のことなんか忘れて、地上世界で過ごす選択肢だってあったのに」
「殺される理由が欲しいの? 貴女が殺した人間の数は死刑でも償えないわ。貴女は吸血鬼、私は狩人。付け加えれば、私を半吸血鬼にしたのも貴女よ。復讐の理由には足りるでしょう」
「そうね。貴女は私が、初めて血を吸った女性で……そして唯一、殺さなかった人間だわ。躊躇っちゃったのよね。その失策で、貴女は半吸血鬼として力を得た。鎧もない、そんな軽装で私を殺しに来るくらいに」
そうだ。彼女は十才の頃、森で吸血鬼に襲われ、同族となった。その彼女に、最初に襲われたのが私である。まともな生活を送れなくなった私は成長した後に男装をして、吸血鬼を殺す仕事に就いた。全ては、彼女を殺すために。
「大人しく殺される気はなくてね。抵抗させてもらうわ」
無駄な足掻きだった。もう彼女を守る屍者はいない。吸血鬼の特殊能力も私には通用しないのだ。湧き上がる憐憫の情を私は抑え込んだ。
獣の速度で、口を開けて牙を突き立てようと彼女が走る。私は二刀を抜き放った。幼い身体の胸を刃が十字に切り開く。現れた心臓を双剣で突き刺すと、瞬時に彼女の姿は灰となった。
『……これで、……私を、許してくれる?』
テレパシーだろうか。舞い散る灰から彼女の声が聞こえた。私は目を閉じる。どうせ開けていても、ろくに前は見えないのだ。
『嫌だな……、泣かないでよ。十年経っても変わらないわね、そういうところ』
「私は、貴女と、陽の下で生きたかった」
『私は可能なら、闇の中で、永遠に貴女と揺蕩いたかった……。じきに、この空間も私も消えるわ。地上で幸せになりなさい。それが最後の、私の願いよ』
「嫌だよ……、もっと私と話してよ……」
『わかってるわ。貴女は私が安らかに眠れるよう、呪われた生から解放したかったのよね。復讐なんて、優しい貴女には似合わないもの』
そうだ。弱い私は、気持ちを強く持たないと前へ進めなかったのだ。こうするしかないと、わかっていた。それでも、殺したくなんかなかった。
『先にお別れを言わせてもらうわね。さようなら、ゆっくり後から来なさい。元気でね、愛してるわ』
目を開ける。気が付けば村の近くで立ち尽くしていた。春の陽光を感じる。誰も見ていないことを確認してから、声をあげて私は泣いた。
「さようなら……お姉ちゃん。愛してる。さようなら、さようならぁ……」
私の中には、姉から与えられた能力と呪いが残っている。それでいい。この世の吸血鬼を狩り続ける。それが遺された、私の使命だ。
『仕方ないわね。しばらく傍にいてあげるわ』
春風が囁いた気がした。きっと幻聴だろうが構わない。私の中には姉がいる。私たち姉妹は永遠に、ずっと一緒だ。