8.糸繰りのニコ②
「運命の赤い糸が見える」
一般に、成婚率20%を超えればそこそこという業界で、『ニコの結婚相談所』では実に60%を超える脅威的な成婚率を叩き出しているというのだから、その主人ニコ・オイレンシュピーゲルについて、このような噂が流れるのは自然なことである。
身も蓋もない言い方をしてしまえば実際に見えているのだが、彼はそのことを公言していない。
『運命の赤い糸』というのがいかなるものか、実は彼自身正確に把握しているわけではない。ただ何かしらの呼び名を与えなければ、この事柄を扱いにくいというので、噂の方から逆に拝借するような形で便宜上そう呼んでいるだけだ。
それはちょうど、我々が『運命』という言葉を扱いながら、その何たるかをほとんど知らないのに近い。
観測上ほぼ間違いないと言えるのは、その糸に結ばれた2人が性愛によって強く惹かれ合うということだ。
「ほぼ」というのは、性愛が内面的なものであって、客観的にそれを証明する手段がないためである。
少なくとも確認出来た範囲では、両者に特定のパートナーがいない場合、赤い糸によって引き合わされた2人が恋人同士の関係となった確率は、今のところ100%だ。
ただ、性愛によって誰かと深く結びつくことは、必ずしも幸福と等価ではないということに、ニコはほとんど警戒に近い注意を払っていた。
なにしろ、愛し合う2人が身分や種族の違いによって強い外的圧力に晒され、最終的には命を落とすというような事態に発展する場合、決まってその2人は赤い糸に結ばれている。
もっと卑近な例を挙げるとすれば、糸によって結ばれた2人の内片方、あるいは両方が、すでに別のパートナーを持っているという場合だ。
「恋人がいた方が見栄えが良い」であるとか、「特に断る理由もない」とかいった程度の動機で恋愛関係が結ばれるというのはそう珍しいことではない。
そういう2人が運命によって結ばれていないのは言うまでもないが、では彼らが幸福でないかといえばそれはまた別の話だ。
そうした2人の一方に、糸で結ばれた人物が接触してしまうというケースを、ニコはこれまで12件目撃している。
そのうち、後の展開を確認出来たのが半分の6件、うち4件(中でも1件は既婚者だった)は、それまでのパートナーと破局して糸で結ばれた相手と恋愛関係になった。当然、周囲に相応の混乱を振りまき、時には軽くない禍根を残しながら。
となると、残りの2件も時間の問題と考える方が自然だろう。
そうした事例の数は、物事を結論づけるには少な過ぎる一方で、ニコ個人に一定の慎重さを強いるには十分だった。
「それで、ミュシャの相手はあの娘じゃなかったってんだろ?」
リュドミラはニコの焼いたフィナンシェを紅茶で飲み下すと、不思議そうに呟いた。
「うん。ちょうどミュシャの『赤い糸』が張ってきたところだったから、僕も最初は彼女がそうだと思ったんだけど、『糸』の感じが全然違ったから」とニコも首を傾げる。
一口に「赤い糸」と言っても、「赤」という色相には幅があり、「糸」の太さや質感もそれぞれだ。
昼間、この相談所にやってきた猫人の商人ミュシャの左手小指から延びていた糸は、毛糸のように太くふわふわした質感で、色合いも淡く、橙色に近かった。
一方つい先ほど運び屋のドミニクに連れ込まれ、また連れ去られた娘、「コンスタンツィア・ツェツィーリア・フランツィスカ・ツェリスラワ・ツー・ツィーゲルツハイン」とかいうウンザリするような名前の女に結ばれていた糸はというと、髪の毛のように細く、硬質で、薔薇の花びらのように鮮やかな、光沢のある濃い赤だ。
つまり、ミュシャと王女の小指に結ばれた糸は別のもので、この2人の間に『運命』は通っていない。
「にしちゃあ、ずいぶんタイミングが良いよね」
「うーん……」とニコは唸って、その日起きた出来事を、どう解釈すべきかと頭をひねった。が、結局「不思議な人だったよね……」と何ら実りのない感想が漏れただけだった。
これにはリュドミラも深くうなずく。
「小難しい話始めたかと思ったら、いきなりバカの論理になったからね……」
「彼女がこの街に来たのって、本当にそれが動機だったのかな」
「何か別の目的があった?」
「分からないけど、リュドミラの言う通り、彼女は世界についてとてもよく知っているのに、ここに来た理由だけが急ごしらえみたいだったから」
彼女の問題意識は、帝国の軍拡と重工業化によって、そこに暮らす人たちの幸福が損なわれるのではないかという懸念だった。
正直な直感から言えば、戦争が起きたとき、軍隊が弱くては結局負けてみんな不幸になるのではないかとも思える。
一方で、男がみんな兵隊になり、女がみんな武器工場で働くような社会が幸せだとは思えないというのも、それはそれで一定の説得力を持っていた。
しかし、その解決策として「みんながオシャレになれば優しい気持ちになって平和が訪れる」という結論は、彼女の問題提起に対して不自然に稚拙だ。
「デカいことブチ上げるヤツなんてのは大体そうさ」とリュドミラは鼻で笑う。
その態度は、この件についてあまり深入りすべきではないという彼女の意思表示に見えた。
裏を返せば、件の王女は問題を抱えているということだ。少なくともリュドミラはそう思っている。
そしてニコは、彼女のそういう直感を信頼していた。
「何か困ってるんだったら、助けたいな」
リュドミラは呆れたように笑う。しかしその笑い方は、ニコがそう言い出すのを予見していたみたいだった。
「もう、助けるって決めてんだろ? アンタも大概お節介だからね」
「僕はリュドミラみたいに強くないから、助け合わなくちゃ生きていけないだけだよ。彼女、しばらくは居るつもりみたいだし」
「この街がオシャレになるまで?」
「どこまで本当か分からないけど」
「本気なら、あの娘はバルバベルクに骨を埋めることになるよ」
そんな言葉を冗談混じりに交わしながら、リュドミラはニコの髪をなでる。
「彼女の他に、ミュシャの『運命の人』がここへ近付いてたことは確かなんだ」
彼の目にしか見えない『赤い糸』は、物理的な法則とは別の理に動かされている。
多くの場合、物質的な糸とは逆に、結ばれた2人の空間的距離が近付くほど糸は張り、離れるほどたわむ。
したがって、ニコは糸の張り具合によって『運命の相手』との距離を推し量っている。
ミュシャの小指から垂れていた糸が張り詰め始めたのはこの日の昼間のことだ。
「もしかして……ドミニク?」
リュドミラはそう呟いてから、自分のアイデアに噴き出した。
「いや、彼は奥さんとバッチリ結ばれてるから」と答えてから、「あ……」と、ニコは声を漏らした。
リュドミラも彼の気付きに共鳴する。
「ミュシャの相手はあのお姫様を追ってきた?」
2人は目を、そして声を合わせた。
「強盗……」
「そもそも、積荷目当ての強盗じゃなかったのかも。例えば、彼女の国が連れ戻そうとしてるとか」
「逆に敵対する貴族とかね。現地のチンピラに小銭握らせて、安全なところから他人に仕事させんのがヤツらのやり口だ。まあ、単純に身代金目当てのゴロツキって線も消えないが。何にしろ、そういう連中が運命の相手だってんじゃ、ミュシャも気の毒だね」
「心配だなぁ」と、ニコはつぶやく。
それは客観的に見れば、ミュシャの心配をしているのか、あの派手な貴族の娘を心配しているのか分からないような言い草だったが、妻のリュドミラはこの街について、そしてニコ・オイレンシュピーゲルという人物について、とてもよく知っていた。
「まあ、この場合、一番ひどい目に遭うのは依頼人だろうね」
ニコは眉尻を下げてうなずいた。
コンスタンツィア・ツェツィーリア……(略)は、運び屋のドミニクが引き受けた。彼は街の流儀に精通しているし、顔も広い。そして何より腕が立つ。
不意を突けなかった時点で、コンスタンツィアの奪還、あるいは強奪、あるいは暗殺──何にせよ、その事業はほとんど失敗が決定づけられていた。
そしてこの街のチンピラというのは、忠実でも勤勉でも誠実でもない。何としてでも任務の失敗を挽回しようなどという情熱を期待する方が間違いだ。むしろ前金だけはちゃっかり懐にしまって、道に唾を吐くより気軽に金の出所を吐くだろう。
仮にどこかの領地の依頼だとすれば、かえって気の毒なのはその依頼人だ。きっとその人自身、偉い人の命令に従ってそうしたのだろうに、結果的には、お金を取られ、依頼は果たされず、それどころかドミニクと彼が声をかけた仲間たちによって、バルバベルクの流儀というやつを身をもって教わることになる。
「ここで考えててもキリがないね。街で聞いて回った方がいいかな」
窓の方に目をやるニコを、リュドミラは強い力で抱き寄せた。
外では一つ、また一つと家々の灯りが消え、夜が闇の色を刻々と濃くしている。
「明日にしようよ。日が暮れたら、アンタには他にやるべきことがある」
抱き合いながら、ソファの上に折り重なって倒れていく途中、ニコの小さな頭蓋の中を、古い記憶の残響がこだました。
──家族をつくれ! ニコ!──
その声の切実な響きに、ニコは締め付けられるような寂しさを覚えながら、リュドミラの腕の中に包まれた。