3.聖女サロメ
帝国の道義、退廃せり。
聖職者たちは口を揃えて言う。
しかし、このバルバベルクに一歩足を踏み入れれば、彼らの言う道徳的退廃など、ズボンの裾に泥がはねた程度のものだと思い知ることになるだろう。
『聖女サロメ』は通りを歩きながら、人知れず眉をひそめた。
頭からすっぽりと白いローブをかぶった姿は、一目で彼女の身分を知らしめる。
『敬虔』『高潔』『慈愛』の精神から、司教と同等の地位を有すると“される”聖女が、なぜその顔から慈愛の表情を剥ぎ落とされながらも、一方でその原因について言及せずにいるかといえば、ことは単純である。
いくつもの悪徳が目の前で立て続けに起こるので、一方を咎めれば他方を見逃さざるを得ず、不平等の悪徳を自ら生み出すという、悪徳の袋小路にはまり込むからだ。
右の露店から子どもがリンゴを盗んだと思えば、正面では男たちが輪になって喧嘩を囃し立てている。今し方通り過ぎた小路の陰から漏れ聞こえる儲け話もまずマトモなものではあるまいし、酔っ払いはそこかしこに転がって、娼婦の嬌声は往来の人通りを憚る気色もない。
放埒に次ぐ放埒。
頽落に次ぐ頽落。
それがこのバルバベルクという街だ。
さて、ではそのような街に彼女のような若い女の聖職者が遣わされているのはなぜかといえば、それもまた至って単純な理屈である。
「あんな街にはバカしかいないので、若い女でも看板にしておけば信徒が増える」
はっきりそう言わずとも、その意図は明らかだった。
「信心に篤く──」
「汚れを知らず──」
「慈悲深きこと聖母が如し──」
近隣の教区を統べる司教たちが、歯の浮くような褒め言葉を並べながら彼女に注いだ侮りの視線を思い返し、暗澹たる気分で街を歩いていたサロメは、目的の店へたどり着くと足を止めた。
運命のお相手、探します。
『ニコの結婚相談所』
何と呑気な謳い文句だろうと、ここに来るたび思う。
しかし、その結婚相談所は宗教上極めて重要な意味を持っていた。
彼女の信ずる教会において、『結婚』とは、『洗礼』『堅信』『聖体』『ゆるし』『病者の塗油』『叙階』に並ぶ7つの秘蹟の一つである。
従って、彼女の属する『正統教会』と『ニコの結婚相談所』との間には、複雑な利害関係が絡んでいた。
そして──
サロメはよく響くように、しかし決して乱暴でなく、そこに建てつけられた木戸を3回ノックする。
玄関の戸が消耗品として扱われているこの街で、こんなふうに人を訪ねる者は彼女以外に一人もいない。
彼は、きっと気付く。
「やあ、サロメさん。こんにちは」
少し舌足らずな声と一緒に、紅茶の匂いが鼻先をくすぐる。
そこは聖域のようだった。
この街で唯一、この店の中にだけ、静謐で、豊かで、穏やかな時間が流れている。
「ええ、こんにちは。ニコさん。今月の──」と言いさして、サロメは目を細めた。
彼の背後に、巨大な女が立っていたからである。
威嚇するようにこちらを睨んでいるその女の態度や、肌を露出して肉体の頑健さを見せびらかすような装いには、神の愛を信じ、楽園の到来を一心に渇仰すべき聖女の心にさえ、えも言われぬ嫌悪感を惹起する。
人喰いのリュドミラ。
ある時は野盗として掠奪の限りを尽くし、ある時は傭兵として虐殺の限りを尽くし、またある時はこのバルバベルクの住人として放埒の限りを尽くすという、この街の象徴にして悪徳の権化のような女である。
挙げ句の果てに、このバルバベルク唯一の良心、ニコ・オイレンシュピーゲルの妻を名乗って、その青い果実を欲望のままむしゃぶり尽くしている(に違いないとサロメは想像している)のだから、神がいかに慈悲深いといえども、裁きの雷を一発喰らわせてやらないことには気が済まない。
というような女であるから、その口から出た言葉がこうしたものであっても、さして驚くほどのことではなかった。
「ウチのダンナに何か用かよ、アバズレ」
サロメは自らの未熟を恥じ、自戒を込めてこう返した。
「あらやだ。あなた口から屁をなさいますの? 救われますように」
リュドミラは鼻で笑う。
「くたばり給え。アーメン」
「まぁまぁ……」と仲裁に入ったのは、この店の主人ニコ・オイレンシュピーゲルである。
リュドミラとサロメは気が合わない。それは、よほど勘の鈍い者でも一目で分かる。
まして、一方はこの街最強の狂戦士、また一方は大陸最大派閥の宗教的権威というのだから、この2人が出くわせば、周囲に迸る緊張も一通りではない。
「あ、すみません。僕、ぼんやりしてました。今お菓子持ってきますね。どうぞお掛けください、サロメさん。リュドミラも、ちょっと待っててね。今朝、お客さんに頂いたのがあるから」
ニコがそう言うと、リュドミラは毒気を抜かれたようにため息をつく。
「もう。じゃあアタシが紅茶淹れるよ」
「ありがとう、リュドミラ」
夫婦(を名乗る)2人が店の奥へ引っ込むと、サロメは麻布張りのソファに膝を揃えて腰を下ろした。
高級なものではないが、なにかしっくりときて座り心地が良い。
サロメの属する正統教会の法に従えば、教会によって『結婚の秘蹟』を受けた男女だけが『夫婦』と認められる。
その意味において、店の奥にあるキッチンで何やら忙しなく紅茶とお茶請けを用意している一組の男女は、夫婦ではない。
ニコ・オイレンシュピーゲルは、正統教会の信徒会名簿と受洗名簿に籍のある、正統教会の信徒である。
彼の実務的な性格を考えるに、おそらく便宜的な事情から洗礼を受けたものと思われるが、教会は、同じ正統教会の信徒と婚姻する場合のみ秘蹟を授けるのであって、経緯はどうあれ、形式的にでも正統教会の信徒である以上は、同じ教会の信徒を伴侶とすべきなのである。
(そう、例えば──)
一人考えに耽っている間に、テーブルの上にはクッキーと紅茶が並んでいた。
「お気遣い、ありがとうございます」
サロメが礼を言うと、ニコは近くの棚から書類の束を一綴り引っ張り出して、サロメの方へと差し出した。
「これ、今月の挙式希望者の名簿です」
「まぁ。こんなにたくさん!」
ずらりと並んだ名簿に目を落として、サロメは声をあげた。
正統教会において結婚とは「神が結び合わせるもの」とされる。
従って、俗人であるニコが金銭を対価に結婚相手の斡旋をするということは、それ自体に教義上の問題を孕んでいた。
にも関わらず、これが黙認されているのは、あらゆる種族のあらゆる宗教が入り乱れたこの街の男女を結び合わせ、成立したカップルを教会に結び合わせるという彼の営みが、一方では教会に無視できない利益を生んでいるからである。
「意外に信心深い人が多いんです。船乗りなんかにもゲンを担ぐ人が多いそうですけど、海の機嫌をどうすることもできないのと同じで、ダンジョンでの生き死にも人の力ではどうにもできないので、頼るとすれば神様しかいないってことだと思います」
「なるほど……」
サロメは複雑な声色でつぶやいた。一面ではよく納得できる話だが、だとすれば、ここの連中はもう少し神の御心にかなう振る舞いをすべきではないか。
彼女の疑問を察するように、ニコは付け加えた。
「もしかしたら、サロメさんとここの住人では、神様の信じ方が少し違うのかもしれませんね。もともと決まりごとを守るのが苦手な人たちなので。ただ自分の命がかかっていますから、彼らの祈りは切実です。その分、祈りを聞いてくれそうな神様に乗り換えるようなこともよくあります」
これは当然、敬虔な神の僕を自認するサロメにとって愉快な理屈ではない。だが一方で、彼女のあずかる教会の信徒は右肩上がりに増えていた。
それにも『ニコの結婚相談所』が大きく関与している。
「特にこだわりがなければ、どちらかの信仰に合わせると便利ですよ。宗教上のイベントも一緒に参加できますし、何より異宗婚だと式を挙げられない場合も多いので」というような口上で、改宗を勧めるのである。
ニコの隣で縄張りを主張するように睨みをきかせるリュドミラを受け流しながら、二、三、打ち合わせを済ませると、サロメはソファを立った。
紅茶の香りが後ろ髪を引く。
彼女は去り際、ニコにこうたずねた。
「貴方は、『結婚』というものについて、どうお考えですの?」
するとニコは、その見た目に似つかわしい無邪気な笑顔で、唇の前に人差し指を立てた。
「ヒミツです」
(うーん……! 小悪魔!)
そういうところが、たまらないのである。
聖女はその秘密を胸に抱えながら、決して溶け合うことのない猥雑な人混みの中へと帰って行く。
教会の鐘の音が、雑踏の喧騒を呑み込むように、深く、重たく、暮れ時の街に響いた。