2.人喰いのリュドミラ
持たざる者の行き着く先というのは、大体相場が決まっている。
戦争が終わって職にあぶれた傭兵、農地を追われた小作人、没落貴族、逃亡奴隷、犯罪者──そうした者たちに泡沫の夢を見せ、代わりになけなしの命を喰らう場所。
それを、この世界では『ダンジョン』と呼ぶ。
西方の島国で起こった産業革命が大陸全土に広がると、エネルギー資源として『魔石』と呼ばれる鉱物の需要が爆発的に増加し、以来、その鉱床である洞窟型ダンジョン『ヘカテー』を抱えるバルバベルクは、経済をダンジョン需要に依存してきた。
『冒険者』といえば、元は護衛と、傭兵と、害獣駆除と、地形調査と、犯罪者討伐と──とにかく危険で割に合わない雑多な仕事を請け負う者たちのことを、「危険を請け負う者」というくらいの意味で、伝統的にそう呼んでいたわけであるが、このところではもっぱら『ダンジョンに入る者』を意味するようになった。
それもこの『魔石』というのが、近年は同じ重さの銀と同等の価格で取引されていたからであるが、それを手に入れるにはまた同じ重さの命が要求される。
ダンジョンが危険なのは、厳しい自然条件や魔物の存在だけではない。
司法の手が届かない無法地帯であることだ。
腕の立つ者にとって、魔石をちまちま集めるよりも、そこにいる冒険者から金品を奪った方が手っ取り早いという場面などいくらでもあるが、そうした事件を検分するために、危険を冒してダンジョンに潜る法曹はいない。
それを正当化するために、この街では「ダンジョンに潜った者は、そこにいる間、死ぬことに自ら同意したものと見なす」と定める法律まで出来た。
そうしたわけで、3年以内に半分以上が死に、残った者の半分は心身の故障で現場を退き、さらに残った半分は「まあ、他の仕事をやるよりは稼げた」というところで手を引く。
よほど平和で豊かな社会に暮らす人の目から見れば、どうしてそんな仕事になり手があるのかと首を傾げることだろう。だが、この世にはどの道死ぬより他にないという貧民たちが、よくもまあこれほどいるものだと感心するほど溢れていて、この地獄に命と労働力とを際限なく供給するのである。
そのようにして、バルバベルクには行儀の悪い人たちが集まり、行儀の悪い人たちの集まるところに行儀の悪い産業が起き、行儀の悪い産業の起きたところに汚い金が循環するという歪なシステムが出来上がった。
さて、そんなバルバベルクでも、しばしば命知らずの冒険野郎どもが息を潜める時がある。
ダンジョンの魔物よりも、なお恐るべきとされる危険人物の出現である。
『人喰いのリュドミラ』
元は北方にある子爵家の令嬢であったのが、婚約者の不義に激怒して相手の耳を喰いちぎり、領地を追われて一度は野盗にまで成り下がったが、今度は傭兵として幾多の戦場で夥しい屍の山を積み上げて、貴族だった頃よりよほど成り上がったという恐るべき烈女である。
しかし、戦争が終わると傭兵は仕事を失う。
そこで彼女が目をつけたのがダンジョンだ。
そこにいる魔物も冒険者も根絶やしにして、金品も魔石も根こそぎ掻っさらうというパワープレーで、冒険者たちを震え上がらせたという。
もっとも、そこにいた冒険者が根絶やしにされたのなら、震え上がった冒険者はどこにいたのかという疑問は残る。にしても、その真偽がどうであれ、こういう時に要らぬ見栄や功名心を自制できることこそが、長くこの商売を続ける者の資質なのである。
したがって、冒険者たちは雲行きや風の具合でその日の天気を推し量るよりなお敏感に、こうした極端な同業者の動向に注意しなければならない。
今朝も『ニコの結婚相談所』の前に人だかりが出来ているのは、こうした事情によるものだ。
この町についてよく知らぬ者は、腕っぷしで飯を食う冒険者たちが、なぜ商売敵の動向を知るのに結婚相談所へ押しかけるのかと首を傾げることだろう。
だが『人喰いのリュドミラ』の名さえ知っているなら、2階の窓からデカデカと貼り出されている横断幕を見た途端、傾げた首を縦に振るのに違いない。
──リュドミラはお昼からダンジョンに入ります──
その真下で玄関の戸が勢いよく開いて、石畳の往来に一陣の風を起こした。
荒くれ者どもはまるで生娘がスカートの裾を押さえるように、突風にめくれ上がる革の直垂や鎖帷子の裾を押さえる。
「邪魔だ。失せな。その首に頭が乗ってるのは偶然だったと思い知る前にね」
特に怒鳴ったというわけでもないが、その声は複雑に入り組んで軒を並べる家々の間を無闇に反響して唸りをあげた。
声の主は、大柄な女だった。
単に背が高いというばかりではない。
分厚く豊かな胸の谷間が革のコルセットの上部から露出して、その威容と存在感とを一層重厚なものにしている。
三角筋の大きく発達した肩から、赤ん坊の胴回りほどはあろうかという太い上腕が伸び、その先の大きな手には、長箒が握られていた。
店の前に集まった冒険者たちは、蜘蛛の子を散らすように方々へ逃げ去る。
彼女こそ、『人喰いのリュドミラ』。
分厚い鋼鉄の戦斧を片手で振るい、龍の頭蓋も一刀に叩き割るというバルバベルク最強の狂戦士にして、結婚相談所の主人ニコ・オイレンシュピーゲルの妻である。
リュドミラは一つため息をついて、それから店の前を箒で掃きはじめた。
どいつもこいつも、汚れた靴で通りを行き来するせいで、一晩かけて乾いた泥が、石畳にこびりついている。
とはいえ、ここより一本裏通りの景色を見て回れば、『ニコの結婚相談所』とその表通りが、バルバベルクという街の中ではいかに清潔であるかを思い知るだろう。
酔っ払いは反吐も吐けば立ち小便もする。娼婦・男娼は辻々に立ってそこら辺の物陰でいたす。殴り合いの喧嘩はない日の方が珍しいくらいで、それが高じて刃傷沙汰になったという話など、ありふれ過ぎて噂する価値もない。
そんな中にあって、相対的にニコの店とその軒先が清潔を保っているのは、このリュドミラが睨みを利かせているから──いや、かつてこの店の前で喧嘩を始めた酔っ払いの顎を、彼女が砕いたから、と言った方が詳しい。
そうした次第で、地理的には西の外れにあるこの小ぢんまりとした結婚相談所が、この街でもっとも清潔な場所であり、この通りがもっとも安全な通りで、ここ最近では通り沿いの地価まで上がっているというのだから皮肉な話だ。
そんなことを考えるともなく考えながら、石畳に執念深くこびり着いた泥を箒の先で擦っていたリュドミラの耳に、店の奥から駆け寄る軽やかな足音が聞こえた。
玄関から顔を出したのは、彼女の夫、ニコ・オイレンシュピーゲルである。
その風采といえば、十を少し過ぎた少年にしか見えない。背は低く、つるんとした頬に薄く赤みが差して、耳たぶを噛めば、その付け根にうっすらと生えたうぶ毛が口元に触れることも彼女は知っている。
ニコは戸口にちょこんと立って、店の奥を指す。
「朝ごはんができたよ。今日はね、お芋のポタージュがとても上手くできたんだ」
リュドミラはそれを聞くと微笑んだ。
「おいおいおい、今日も朝からクソかわいいね、アタシのダンナさんは」
ニコもそれに、ふふっと声を漏らして笑う。
「いつも綺麗にしてくれてありがとう。リュドミラ」
「毎朝通りに雑魚がたかるのだけは何とかならんもんかね。邪魔くさくってしかたがないよ」とリュドミラは2階の窓から張り出された横断幕を見上げた。
──リュドミラはお昼からダンジョンに入ります──
それは、妻が余計なトラブルに遭わぬようニコが用意したものだ。おかげでこの街の冒険野郎どもは、夜が明けると天気予報を見るように、まずこの店の前に群がる。
「いつか、みんなと仲良くなれるといいね」とニコは言った。
リュドミラは唇を尖らせ、目を逸らす。
「別に、アタシはアンタがいりゃあ、それでいいよ」
「僕は、リュドミラの優しいところを、もっとみんなに知ってもらえたら嬉しいな」
そう言うニコの後について、リュドミラも店の奥のキッチンへ向かう。
そこではポタージュを煮込んだ鍋が、ほわほわと湯気を立てている。
呑気な男だ、とリュドミラは思う。
そういうところが好きだ。