19. 獄中からの考察
鉄格子を隔てた向こうから蝋燭の灯りに照らされて、一組の男女が向かい合っていた。
底冷えのする石造の地下牢で、男は壁にもたれながら、尻のすわりの良いところを探すように身じろぎする。
「床が硬いね。座布団でも頼めない?」
「意外に思うかもしれないけど、ここは宿屋じゃないの。ルームサービスは期待できない」
女が呆れたように答える。
20代そこそこといった若い女で、素朴な顔つきをしているが、どことなく苦労の影が浮かぶのは心許ない灯りのせいばかりではないだろう。
男は自嘲めいた笑顔を浮かべる。
彼が不思議な光に包まれたのは、大事な商談を上手くまとめて先方の事務所を出た直後のことだった。
視界が白く染まった。熱い風呂に長く浸かって立ち上がったとき、ちょうどこんな目眩を起こしたことがあるな……などと思った次の瞬間には、四周を本棚に囲まれた、煤けた匂いのする狭い部屋に立っていた。
床には見たこともない記号(文字?)が円の内側にびっしりと並んだ不思議な図形が青白く輝いていた。これには驚きを通り越して変に笑いが込み上げてきたものだが、本格的に声を出して笑ったのは、今仲良く地下牢へぶち込まれている彼女が、白いフードつきのローブを頭からかぶり、長い樫の木の杖をついて、さも魔法使い然として呪文を唱えていたことだ。
彼女は、名をテレーゼという。
後で聞いたことだが、このツィーゲルツハイン王国という国で『宮廷魔導士』という立場にいるらしい。それももはや過去形で言い表すべきかもしれないが。
とにかく、彼女はお気に入りの杖を奪われ、男と一緒に仲良くこの地下牢にブチ込まれたというわけだ。
「さて、この辺で少し状況を整理したいと思うが……」と男は言った。
「聞きたくないわ」テレーゼは投げやりに言う。
「そうか、では聞いてくれ」
「じゃあ何のために確認したのよ」
「聞きたい人に話すのと、聞きたくない人に話すのとでは、話し方が違うからだ」
「あぁ、そう……」
男からすると、まず「なぜ彼女との間に言葉が通じているのか?」という疑問がある。
彼は彼の母国語を話している。彼女はまた別の言語を話している。にも関わらず、これまで聞いたこともないその言語が、まるきり母国語を聞くのとかわりなく理解することができたし、男の言語も余すところなく彼女に伝わっているようだった。
ただ、そうしたことは一旦わきに置き、プラグマティックに物事を考えるべきだ。
「困難は分割せよ」と、ルネ・デカルトも言っている。今、言葉が通じているならそれは結構なことだ。
男は一つ咳払いをして、それから話しはじめた。
「まず確認だが、これまで起きたことの文脈から言って、私は、私が元いた世界から、別の世界に──君の視点から言えば、別の世界から、この世界へ、移動した」
テレーゼは一言、「ええ」とだけ答えた。
「よろしい。ならばその原因として働いた力を、仮に『魔法』と呼ぶことにしよう」
「私たちも、そう呼んでいる」
「それはいい。私が考えるに、私がこの世界に来たのは、他ならぬ君が、その『魔法』の使い方を誤ったからだ。違うか?」
「まぁ……そういう言い方も、出来ないことは……ないけど?」テレーゼは目を逸らして口を尖らせる。
「他にどういう言い方が出来るのか興味はあるが、今は置いておこう。
とにかく、私は平和な故郷の静かな昼下がり、雲の切れ間から差す暖かな木漏れ日を浴び、小鳥のさえずりを聴きながら、のんびりと外を歩いていた。目をつむって、想像してみてくれ……とても長閑だろう。穏やかで、幸せな気分だ──」
そして男は手を叩く。乾いた音が、辺りに虚しく響き渡った。
「ハイ、目を開けて。ご覧の通り、とても立派な地下牢だ。さてこの場合、責任は誰にあるだろう」
「いや、『隠れてて』って言ったのに、あんたが呑気にトイレなんか行ってるから見つかったんでしょ!」とテレーゼは強く抗議した。
「確かに、そういう側面もないではない。私のいた国とは違って、ここでは専制的な政治が行われているという事情も斟酌できる。だが、この国の一般市民だってトイレに行く自由くらいは認められているのではないか? 彼らに認められる権利は私にも認められるべきだ」
テレーゼは開き直ったように両手を挙げて、降参した。
「あぁ、もういいわよ。っていうか、よくそのテンションでいられるわね」
「私たちには、やるべきことがある。処刑を免れ、ここを抜け出すことだ。それが可能なのか不可能なのか判断するのに、私は十分な情報を持っていない。それがいよいよ不可能だと確定した時、私はこの世にこれほど醜い生き物がいるだろうかと君が軽蔑するくらい、見苦しく取り乱して駄々をこね、命乞いをしてご覧に入れよう。だが今はまだ、その時ではない」
「その遥か上から見下ろす口調何なの? 腹立つんだけど」と、テレーゼは男を非難したが、やがてそんなことに文句を言ったところで仕方がないと観念したものと見え、何度めか分からないため息をついて、こう言った。「分かった、分かった。聞くってば。どうせ退屈だし」
「よろしい。まず、私は別の世界からこの世界にはるばるやって来たわけだが、この世界では、過去にも何度かそういうことが起きていたと考える。そしておそらく、この世界の人たちはそういうことを意図的に起こしてきた。それも私と同じ、『日本』という国から。カナダやドイツやジンバブエではなく」
「どうして、そう思うの?」テレーゼは表情を変えなかった。というより、表情を悟られまいと努めているようだった。
「どこかのお偉いさんと間違えて私を呼び出してしまった君は、私にまずどこから来たか尋ね、私はワケも分からず『日本』と答えた。君はその時点で、『ニホン』という単語が国を指すのだと理解していた。ニホンという国など存在しないこの世界で。この言葉が君たちの歴史や記録に残っていて、それが国名だと知っていたからだ。そういう国がたくさんあるなら、覚えるのも大変だろう。一言『ニホン』と言われてピンときた、というわけにはいかない」
「それは、そう」と、テレーゼは簡潔に肯定した。
「君たちの世界は、私たちの世界にはない技術や知見を持っている。逆もしかりだ。つまり、動機があって、手段がある。なら、やってみるのが人間というものだ。
しかし、おそらくニホンから来た人たちは、初めのうちこそ大なり小なり役に立ったかもしれないが、余所者がもたらすのは利益だけではなかった。私が問答無用でここにぶち込まれたのはそのためではないか?」
男はこの考えについて回答を求めたが、テレーゼは首を横に振った。
「2つの理由で答えられない。1つめに、私が持っている知識や情報が、正確とは限らない。もう1つは、それに答えることが、私の立場をより悪くする可能性がある」
「結構。では質問を変えよう。もっと答えやすいものに。
海に近いだとか標高が高いだとかいった地形的影響もあるだろうが、概ねにおいて、『北へ行けば寒く、南へ行けば暑い』どうだろう?」
「ええ。大体」
テレーゼが頷くと、男もそれをなぞるように頷いた。
彼らには少なくとも『方位』の概念がある。そしてこの世界も、おそらく南北を軸として自転しており、ここは北半球に位置している。
「ここは、島国かな?」
「いいえ。違うわ」
「なるほど。では、この国が属する大陸は東西に長く、海岸線は複雑に入り組んだ形をしている。むしろ、この大陸自体が複数の巨大な半島の集合体と言えるかもしれない。そしてこの国は、海岸に近い場所に位置している」
テレーゼは目を見開いた。
「城から一歩も出ていないあなたに、なぜ、そんなことが分かるの?」
「ここには大規模な建築技術があり、我々をここに連れて来た兵隊は鉄製の武具を身に着けていた。かつて私がいた世界で、ここに近い文明を築いた地域の特徴がそうだった。文明が発展するには地理的条件がある。大陸が東西に長いというのはその条件の一つだ。
狩猟採集生活が成り立つほどこの土地は肥沃ではない。農耕が生まれるのはそういう場所だ。しかし農耕は食物の余剰を生み出し、狩猟採集より多くの人口を、それも就農人口より多く賄えるようになる。農作業から解放された人たちは、政治や学問や発明に専念できるようになり、専業の軍隊を維持できるようになる。
北と南では気候が大きく違い、同じ農作物を育てることができないので、居住領域は南北より東西方向に拡大する。人口が拡大することによって発明の試行回数が増え、イノベーションが起きる。
また海岸線が単調であれば、海洋の水蒸気が届かず内陸は砂漠化する。こうした場所では文明以前にそもそも人が住まない」
「この国が海沿いっていうのは?」
どうやら話に興味を持ち始めたらしいテレーゼの前で、男は牢の石壁をコツコツと叩いた。
「この壁は石灰岩だ。ウミユリやサンゴ、貝類など、生物の殻が堆積して出来たもので、当然海沿いに多く見られる」
「そういう前提が、そもそも私とあなたの世界で違うという可能性は?」
「もちろんある。私がいた世界には少なくとも、他所の世界から善良な市民を一方的に呼び出す手段はなかった。しかし、私の世界と君の世界で大気の組成が全く違うとしたら、私はたちまち窒息していたはずだ。それに、私と君が互いに同じ人間と認め得るだけ、外見的に共通した特徴を有していることから考えても、互いの世界は、かなり似通った性質を持っていると考えられる」
「なるほどね」とテレーゼは言った。「感想を言っても?」
「もちろん」
「興味深い話だし、納得も出来る。でも役には立たない」
「その通り。ここまでは、『私はこういうことを考える人間だ』という、いわば自己紹介のようなものに過ぎない。話はここからだ」
「だとしたら長すぎるわよ、前置きが」
テレーゼは苦笑を浮かべる一方で、男の話に耳を傾けようとしていた。
その時点で目標は達成している。
先ほど長々と喋ったウンチクは、いくつかの本からつまみ食いしたものだ。
当たっていれば賢く見えるし、外れていれば情報が得られる。当然その場合のスクリプトも用意していた。
「では本題に入ろう。君がこの土地の支配者だったと仮定する」
「それは楽しい仮定だわ」
「しかし残念なことに、君の部下は君にとって楽しくない人物を城に招き入れてしまった。腹を立てた君は、その人物と部下をまとめて地下牢にブチ込むことにしたわけだが、さて、この場合、君なら2人を同じ牢に入れるだろうか?」
テレーゼは少しの間、沈黙した。
何か考えているというよりは、気持ちを整理するというような意味合いの沈黙だった。
「……分かってるわよ。分かってる。取り調べなり裁判なり、公正に処分を検討する気があるなら、2人を一緒になんかしない。結託するに決まってるものね。私とあなたが、今こうして愉快におしゃべりしていられるのは、もう処分が決まっているから」
「君はこの期に及んで立場を気にしているようだったが、もうその必要はない。君、『杖を奪われたら魔法が使えない』というのはブラフだろ?」
彼女は目を細める。「どうしてそう思うの?」
「私ならそうする」
テレーゼはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「そういえばアナタ、名前は?」
「アイゼン」と男は名乗った。本名を名乗るのはいつぶりだろうと思った。
彼は詐欺師である。