表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/19

18.教会

 リュドミラは王女コンスタンツィアに「ココ」というあだ名をつけた。


 出奔した王女の名を、往来で大っぴらに呼んで回るのは具合が悪かろうし、何よりコンスタンツィア・ツェツィーリア・うんたらかんたら……その長ったらしい名前にイライラしていたのだ。


 しかし王女はそのことを思いのほか喜んだ。何か、親密さの表現のように受け取ったようである。


「とはいえ、『お姫様は晴れてバルバベルクの住人となりました。めでたし、めでたし』とはいかないだろ。この後はどうする?」


 リュドミラの問いに、教会の庇護を受けるよう提案したのはクセニアだった。


 エルフの口からこうした文脈で「教会」の語が出ることは、多少なりこの辺りの歴史を知る者からすればかなり意外なことだった。


 なにせ、エルフの辿った苦難の歴史を、教会と切り離して語ることはできない。


 しかし、クセニアはこう言った。

「私を虐げたのは教会の信徒だったが、私を救ったのも教会の信徒だった。教会はときとして自らの権威のために利己的な振る舞いをみせただろうし、王権も自らの利益のために都合よく教義を利用しただろう。その中で数々の血なまぐさい出来事が起きたのも事実だ。だが、『エルフを迫害せよ』という教義解釈を教会が公式に発布した事実はないし、同様の法律が施行された国も存在しない。エルフを虐げたのも、救ったのも、結局は個々の人間なのだ。国家や宗教の問題ではない。

 王女が出奔し、使いに出した騎士が裏切るような場合と違ってな」


 現段階でもっとも現実的なリスクは、ツィーゲルツハイン王国が国家としてのメンツを保つため王女奪還に乗り出し、ついでに背任した騎士も始末するということである。


 その上で、クセニアが王女とそのお付きの騎士に教会を勧めたのには大きく3つの理由があった。


 1つには、あらゆる種族のあぶれ者が入り乱れて暮らすバルバベルクの教会は、同じ正統教会でも他の土地と比べてガバガバに間口が広いということ。

 なにしろ、この街には帝国の法に照らしてなんらかの違反を犯していない者の方が少ない。

 そのため、犯罪者を拒むよりむしろ「悔い改めの材料を豊富に抱える脂の乗った信徒」と前向きにとらえ、『ゆるしの秘蹟』にじゃぶじゃぶ課金してもらった方が儲かるというインセンティブがある。

 したがって、危険思想とされかねない仮説を抱える王女と、今まさに重大な背任行為に及ぼうとする女騎士にも、庇護を受けられる見込みが十分にあった。


 2つ目に、教会の力は依然、国家に対抗しうるということ。

 自然科学の発展に伴い、人々は『合理性』という名の、次なる神を崇めつつある。もはや王権にとって教会は折々の儀式を取り仕切るイベント業者の一つにすぎない。

 しかし一方で、合理性の神を奉ずる『科学』という教義には重大な欠陥があった。それは善悪を規定し、生き死にを意味づける力を持たないということである。

 親が子に、子が孫に、何世代にもわたって受け継いできた死生観や道徳的規範は、他ならぬ宗教に紐付いていた。彼らは神の御心にかなうために善行を積み、死者の御霊が安らかならんことを祈る。このように宗教は私的な領域に隔離されながら、それがゆえにかえって個々人の心性に深く根を張った。そして、このような心性を共有している共同体が、大陸全土に広がっているのだ。

 そのシンボルである教会を攻撃するということは、そうした人たちの精神を攻撃するに等しい。

 官僚は自国の兵隊の数を知ることができる。優秀な官僚ならば他国の軍隊を高い精度で見積ることもできるだろう。しかしいかに優秀な官僚でも、この場合実際に武器をとって立ち上がる狂信者の数を計算することはできない。


 そして3つ目が、コンスタンツィアの頭の中にある仮説が、教会に利益をもたらす可能性である。

 近代自然科学における様々な発見は、ことあるごとに聖書の記述と衝突してきた。では、それらの発見に対し、教会はいつも否定と弾圧によって応えただろうか? もしそうだとすれば、神が人類を見放すより早く、人類は神を見放しただろう。

 もちろん、一定の学説に対し、局所的に、また一時代的に強硬な姿勢をとった事実は否定できない。しかし多くの場合、教会は「神の創りたもうた世界を理解しようとする営み」すなわち科学的探究を否定しなかったし、そこで発見された事実と聖書の間の噛み合わせを、寓意的なテキストの解釈を適合的に変更することで処理してきた。

 話を戻せば、コンスタンツィアを教会が保護するということは、彼女の持つ仮説を教会が握るということを意味する。つまり、彼女が唱える仮説が社会に与えるインパクトを事前に見積り、それによって大きな社会変動が起こるとすれば、その変動に際して宗教というサービスが人々に提供する価値と、その方法を検討する猶予を得るということだ。


 クセニアのこうした考えに、反論する者はいなかった。

 それは、ある者にとっては彼女の話をよく理解したからだったし、ある者にとっては反論するほど理解できないからだったし、またある者にとっては厄介ごとを教会に押し付けられれば万事OKだったからでもある。


「じゃあ、教会に案内しましょう」


 諸々の思惑をまとめて包むようにニコが言うと、クセニアはやっと肩の荷がおりたというふうに身を屈めた。

 その隣ではファーティマが、「儲け損ねた」と「面倒が片付いた」が半々に混じったようなため息をつく。


 ニコは少し目を凝らして、彼女たちを見つめた。

 もっと正確に言うなら、2人の小指をつなぐ、血のように赤い糸を。

 


  ◇◇◇



「姫様──」

 教会へ向かう道すがら、ヒルデは切り出した。


 ニコとリュドミラは10歩ほど距離を置いて、彼女たちを先導する。また後ろにも同じくらいの距離を置いて狼人(ライカンスロープ)のガル・ガルが周囲を警戒しているようだった。

 その距離には、2人の間で交わされるべき会話もあるだろうという気遣いが含まれていたかもしれない。


「私のことは、『ココ』とお呼びください。せっかくつけて頂いたあだ名ですもの。私、こんなふうに人から呼ばれることって初めてですわ。ワクワクしておりますの」


 コンスタンツィア(以下、ココと呼ぶ)は、本当に心からワクワクしているようだったが、ヒルデはそれに反応せず、ただ小さく眉をひそめた。まだ、態度を決めかねているのかもしれない。


「あなたの出奔を、手引きした者がいるはずです」


「ええ」ココはあっさりと認めた。そればかりか、「宮廷魔導士のテレーゼです」と名前まで告げた。


「なぜ……」

 テレーゼというのは、魔法の才能で宮廷に召し抱えられた二十歳そこそこの女だ。

 ツィーゲルツハイン郊外の貧農の娘で、その身分から宮廷魔導士に叙せられるというのは望むべくもない大出世だった。その地位を棒に振って王女の出奔に加担する動機が、ヒルデには想像もつかない。


「禁忌を犯したのです。おそらく意図したことではなかったのでしょうが、宮廷の官僚たちはそういう事情を斟酌(しんしゃく)しません」


「だから、別の騒ぎを起こして自分が脱出する隙を作った?」


「利害が一致したのです。私は以前から魔法に関心を持っていました。一般力学と魔法力学を同時に説明する統一理論を考えていたからです。ですから、私はときどき彼女から魔法についての話を聞きました。彼女は、私が城を出て自由に研究することを望んでいると知っていた」


「だからといって、陽動のために一国の王女を利用するなど」


「大人しく沙汰(さた)を待っていれば、彼女は極刑に処せられたでしょう。その状況ではどんな足掻きも無駄にならない」


「それほどの禁忌とは……」


 ココは、そのトピックに重みをつけるような間を置いて、言った。

「異世界召喚」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ