17.コンスタンツィアとヒルデ
「王女コンスタンツィアは狂人である」
宮廷内でこのような噂が囁かれていることを、ヒルデは知っていた。
寝室には夥しい書物が山と積まれ、紙や布の端切れに数字や記号、抽象的な図形を書き込んだものが文机から崩れ落ち、床に散らばって足の踏み場もない。書きつけるものが無くなれば、壁にも床にもところ構わず書きつづる。
かと思えば服飾に異常な執着を持ち、会話をすれば文脈を無視してあらぬ方向へ話が飛躍するので、コミュニケーションにひどく難儀した。
こんな調子なので、王女の正気を疑う声があがったのもそう不思議なことではない。
コンスタンツィアに女騎士が護衛と侍従を兼ねるように配置されたのも、その奇行に対処するためである。
王女が出奔した日、ヒルデは非番だったから、その件について彼女に責任があるとはいえない。
にもかかわらず、ヒルデはその急報に際し、捜索の任に真っ先に名乗りをあげた。
功名心にかられたのではない。いささか、辟易していたのだ──。
「姫様ご自身の、意志をうかがいたいのです」と、ヒルデは言った。
ヒルデとコンスタンツィアの間を隔てていた机は、無残に真ん中から叩き折られ、刺々しい繊維を無秩序にけばだてている。
それは何か、この街そのものを象徴しているようでもあったし、彼女たちの間を取り持つものとして実におあつらえ向きにも思えた。
── アタシがそこから、連れ出してあげようか?──
猫人のミュシャと出会ったとき、彼はそう言った。
彼の言う「そこ」とは、どこを指していたのだろう?
彼には、只人に見えないものが見えている。
退屈、憂鬱、いかんとも形容のしがたい閉塞感、そういうものが、彼の美しい瞳には映るのだろうか?
あるいは、鈍くもたついたテンポで脈打つ心臓の鼓動が、頭の上に生えた彼の耳には聴こえるのだろうか?
コンスタンツィアは、真っ直ぐにヒルデの目を見つめていた。その中に、敵意のようなものが隠されてはいないか、注意深く点検するように。
正直なところヒルデ自身にも分からなかった。
かつて「騎士」とは馬上で戦う者を意味したそうである。
それが時代を下り、領主と主従契約を結んで軍役に服する者を指すようになった。
「騎士」とは、叙任されるものであって、生まれつきの身分ではない。下級兵士からも騎士に取り立てられるケースが実在したし、農民から騎士に成り上がったという記録さえ存在するという。
彼らは武功に対する褒賞として封土を与えられるようになり、これに至って「騎士」とは一つの社会階級を指すこととなる。
その時代における「騎士」とは、成功譚、英雄譚、忠誠譚として語られるロマンチシズムの象徴だった。
しかし、やがて軍事の主力が傭兵に占められ、さらに銃器の登場に至って、現実の騎士は軍事的価値を喪失する。
すると、その称号は「準貴族」とでもいうべき社会階級を表す語としてまったく形骸化してしまうか、または、かつてその誇りを守るために許されていた「私闘」を悪用し、もっぱら掠奪によって生計を立てる「強盗騎士」という形で、戦士としての実態を継承した。
いずれにせよ、「騎士」という言葉にかつて含まれていた馥郁たる香気は失われ、鮮烈な色彩は褪せ、豊かな響きはある特定の属性を表す単なる記号へと成り下がったのである。
では、さらに時を経て、ツィーゲルツハイン王国に「王国騎士団」「近衛騎士団」「国境騎士団」なる組織が編成されたのはなぜかといえば、その言葉がいまだ微かにまとっている、英雄的な響きの余韻、憧憬の残像、ロマンの残り香に、兵士のエンゲージメントを高める効果を期待してのことだ。
しかしその実態は、軍事行動と国家的儀礼を職務とする役人に過ぎない。
それでも、ヒルデにはその「騎士」という言葉が、自分を「何者か」にしてくれるような気がした。
自分が何者であるかを、誰かに規定して欲しかった──。
「私という人間の本質は、『知りたい』という欲求です」
コンスタンツィアはそう言った。
ヒルデは強い否定の言葉をかろうじて喉の奥に押し込んで、話の続きを待った。
ガヤガヤと騒いでいた他の連中も、その空気を察してか、黙って2人の様子を見守っている。
「私は王女として生まれました。ですが、王女のように生まれることはできなかった」
そう言って目を伏せるコンスタンツィアに、ヒルデは震える腹の底から熱した蒸気のようなため息を吐いて、低く、押さえつけるような声で問うた。
「できることなら、その身分に生まれたかった者が、この世にどれだけいるか、想像することができますか?」
「もちろんです」
そう答えたコンスタンツィアの瞳には、決然たる意志の光が宿っている。
「昔、私の父は織物職人でした」と、ヒルデは言った。
コンスタンツィアが無言でうなずき、その先をうながす。
「代々続く職人の家系で、彼は生まれたときから織物職人として生きることが宿命づけられていました。彼は自身の生き方を選ぶ自由を持っていませんでした。けれど、彼は自分が何者であるかを知っていた。『私は織物職人だ』と、堂々と名乗ることができました。あるとき、彼の暮らす街に機械織の工場ができました。すると、父の作る手織物は売れなくなりました。機械織の織物が、父の作る手織物よりはるかに安く、大量に、市場に出回るようになったからです。彼はツィーゲルツハイン王国に流れつき、工場労働者として働いています。しかし、『私は工場労働者だ』と名乗ることはありません。その言葉には、他者と自身とを弁別する機能がないからです。彼は、入れ替え可能な存在となり、そして何者でもなくなった」
「そして、その子どもである貴方も」と、コンスタンツィアは言った。
「私は何者なのでしょう? 何者でもない父と、何者でもない母の間に生まれた私は、何者でもないのでしょうか? 私は大人になるにつれ、そのことが恐ろしくてたまらなくなりました。だから、騎士になったのです。それが、肩書という一種の記号という以外に、いかなる意味も持たなかったとしても、自分が何かに属しているという甘美な幻想なしには、自分という存在に重みを感じることができなかった」
「だから、『王女』として生まれながら、そのように生きようとしない私のことが、憎いのですね」
ヒルデは少しの間沈黙して、それから、慎重に答えた。それは、王女に対して無礼をはたらくまいというような、保身に由来する慎重さではなかった。自身の内的な複雑さを取りこぼすまいとする、より手前勝手な、しかしある側面では誠実な慎重さだった。
「正直、分からないんです。王女として生まれながら、その身分に頓着せずに生きる貴方のことが、私は妬ましい。だけど、私がお仕着せの肩書をまとってみたところで自分自身の空虚さから逃れられないのと同じように、貴方も国を抜け出してみたところで、王女として生まれついた自分自身からは逃れられない」
コンスタンツィアは狂人などではない。
それはヒルデが一貫して、この王女に感じていた印象だった。
彼女はなにか、とても大きなものを追い求めている。それが誰にも理解できないから、彼女の振る舞いが奇行に映るだけだ。
「誰も、自分自身からは逃れられない……」
コンスタンツィアはその言葉を咀嚼するように繰り返した。
「そう。きっと。だけど今、私はこうも思うのです。私自身が、未規定で宙ぶらりんな根無し草として生まれたこと自体は変えようがない。でもそれは翻って、この先私がどう生きるかということを、誰も規定していないということです。私には何もない。ならば、何か価値のあることを成し遂げようとする誰かに、この身を捧げたい。私がそう生きようと望むならば、それを阻むものは何もない。そういうことも意味するはずだ。だから姫様、貴方ご自身の、意志をうかがいたいのです」
コンスタンツィアは、ヒルデの気迫に飲まれたように一瞬大きく目を見開いたあとで、こう言った。
「私は、一つの仮説を持っています。この世界の成り立ちを記述する、大きな仮説です。それは正しいかもしれないし、間違っているかもしれない。ただ、そのことを確かめずにはいられないのです。ですから、大賢者の誉高いクセニア博士を尋ねることにしました。博士は、私の話を詳しく聞いてくださいました。そして、私の研究に全面的に協力すると言ってくださいました」
「いや、そこまでは言ってない……」クセニアが頭からかぶった毛布の隙間を引き絞りながら漏らした。
ヒルデは強くうなずく。
「なるほど、全面的に協力してくださるわけですね。それは心強い」
クセニアはびくりと肩をすくめる。
「な……なんて強引なんだ……」
ヒルデは構わず続けた。
「しかし、私に前提となる知識がないせいで、姫様は私にその仮説を説明することができない。そこで、クセニア博士がそんな私にも分かりやすいよう噛み砕いて説明してくださるわけですな」
そのやり取りを静観していたファーティマが、「お手上げ」というふうに両手を広げた。
「クセニア、説明してやれ。覚悟を決めた相手に交渉は通じない」
「私は最初から、お金のことはどうでもよかったのに……」と恨み言を呟いてから、ほんの概略を話すだけだと前置きして、クセニアは説明を始めた。
「ある物体を高いところに持ち上げて手を離せば、その物体は床に落ちる。可燃物に一定の熱が加わると、火が起きる。一見自明のことに思えるそうした原理には、例外が存在する。『魔法』だ。魔法使いたちは空中に物体を留まらせ、熱のないところに火を起こす。これらの事象は太古の昔から学者たちを悩ませてきた。
200年ほど前、ある学者がこれに対して有効な説明を唱えた。『この世界には、2つの──あるいはそれ以上の──異なる力学体系が重なり合って存在している』
一般力学と魔法力学を分けて考えるというこの画期的なパラダイムによって、私たちはこの世界の有りようについて、かなり多くのことが記述できるようになった。
しかし、根本的なことが未解決のままだ。魔法の力が物理的な質量やエネルギーの影響を受けないのであれば、逆になぜ魔法の力は物理的な存在に干渉することができるのか。
批判的に言うならば、これは現実の諸相から解明不能な事象を切り離して、思考を放棄したに過ぎない。
コンスタンツィアの持つ仮説は、そうした疑問を根本から解決する可能性がある。と同時に、これまでの学者たちが積み上げてきた知の蓄積を、根本から否定する可能性も持っている。……いや、それどころではない。彼女の仮説の前には、あらゆるものが否定され得る。私やあなたが、今こうやって存在しているということさえ──」
ヒルデは腕を組み、低くうなった。
「なるほど。分からん」
「だからイヤだったんだ!」クセニアはファーティマの腰に抱きついて、わんわん泣き出してしまった。
ファーティマはクセニアの背をなでながら抗議する。
「クセニアが人嫌いをおして説明してやったのに。お前はクソだ」
ヒルデはそれに平然と応えた。
「いや、説明自体はとんと分からなかったが、私にとって重要なことは理解した。姫様は、論理立った仮説を持ち、それには十分な価値がある。そこでもう一つ、姫様にお尋ねしたい。姫様ご自身にとって、その仮説の検証はどの程度の価値があるのでしょう」
「命に代えても構いません」
コンスタンツィアはそう答えた。遅滞も澱みも一切なかった。
「私は、この街のあらゆる物事を侮っていました。この街の混沌を侮っていたし、住人の悪辣ぶりを侮っていたし、そんな中にも確かに存在していた善意を侮っていた。彼らがここへ連れて来てくれなければ、私は今ごろ死体となって川面を漂っていたことでしょう。
姫様、私は正直、これまで貴方を任務の対象というくらいにしか思っていませんでした。貴方にとっても、私は数多いる使用人の一人に過ぎなかったでしょう。私には何もない。けれども、昨日より少しだけ善い者でありたいのです。ここは16歳の女の子が一人で生きていける街ではない。
だから、私は貴方の騎士になる。私自身をそう規定する。誰にも文句は言わせない。姫様、貴方にもです」
「へぇ……」と感嘆の声を漏らしたのはリュドミラだった。「この短い間で、ずいぶん見違えたねぇ。どういう風の吹き回しだい?」
恋をしたのだ、とは答えなかった。