16.呪術師ファーティマ
「あのー、そろそろ、本題に入りたくて……」
ニコは遠慮がちに苦笑した。
本当に、そろそろ困るのだ。
次々にいろんな人や犬やロバが現れて、話がずいぶん散らかってしまった。
集会所の会議室には、入り口から見て手前から奥に長い机が1卓、それを挟んで右手にクセニア、ファーティマ、コンスタンツィアが、左手にリュドミラ、ニコ、ヒルデ、ガル・ガルが並ぶ。
当初の予定でいえば、ニコからサクッと一人一人の紹介をしたあとで、すぐに状況を整理して問題の解決に向け話を進めるはずだった。
王女コンスタンツィアと騎士ヒルデとの間にある問題について、ニコは正直なところ、コミュニケーションの単純な齟齬に起因するものではないかと考えていた。この世の中にある多くの問題がそうであるように。
まず彼女たちは、互いが互いの意思についてほとんど把握していないのだ。
もちろん、その意思表示をした結果、利害やら何やらが対立する可能性は大いにある。が、まずはその点を確認しないことには何も始まらない。
「と、いうわけでですね──」
「まて。さきにファーティマのはなしを聞け」
議論を先導しようとニコが慎重に口を開いた矢先、先ほど長々とクセニアの紹介に時間を費やしたファーティマが、ローブの袖から不思議な模様の彫り込まれた腕を伸ばした。
ニコは出来るだけ丁寧に、相手を刺激しないように説明する。
「クセニアさんの紹介にけっこう時間を使ってしまったので、ここは当事者同士のお話を詳しく聞きたいんです」
が、クセニアは首を横に振って繰り返した。
「だめだ。ファーティマのはなしをもっと聞け」
「えっと……でもですねぇ……」
なにか、心地の良い香りがした。
ニコはその匂いをこれまで嗅いだことがなかったし、その匂いに対応する語彙も持っていなかった。
「ファーティマのはなしを聞け」
ファーティマは手のひらを下に、指先をだらりと垂らしている。手首につけた銀の腕輪が2つ、リンと澄んだ音で鳴って、部屋の中に細く長い余韻を引いた。
腕に刻まれた複雑な模様が、ぞろりと蠢いたように見えた。
その時である。
大木の幹が落雷に打たれて裂けるような、けたたましい轟音が、部屋を薄く覆っていた余韻を破った。
ハッと我に返ったニコの目の前で、ファーティマとの間を隔てていた机が真ん中から叩き割られていた。
「呪術だ」
唸るような低い声が響く。
ガル・ガルが机の天板を踏み割って、鉈のように分厚い刀剣を抜き払っていた。
ファーティマの足元に、食器の割れるような音がした。
彼女のフードの袖が、ガル・ガルの刃に裂かれている。そこに隠していた真鍮の香炉が床に落ちたのだ。
ファーティマはほんの一瞬、眉間をぴくりと動かして、それからつぶやいた。
「やはり、狼人がジャマになるか……」
どうやら彼女の呪術は、香炉の匂い、入れ墨の模様、声、腕輪の音、そうしたものの組み合わせで1つの儀式(?)になっているらしい。
「こわぁ……どうしていきなり呪術使うんですか」
ニコの抗議に、ファーティマはごく当たり前の、しかも些末な質問に対してするような小さなため息をついた。
「お前たち只人は、言葉しか分からない。なので、ファーティマはめんどうくさい」
「面倒くさいことを呪術で片付けようとすんなよ。次やったら殺すからね」
それまで椅子に反り返って脚を組み、微動だにしなかったリュドミラが、やはり微動だにせず言う。
「呪術師がぜったいにやらないことは、呪術師を殺すことだ。ファーティマを殺したければ殺してみろ。お前とお前に近しい者たちは、みな呪いの沼の中で死ぬまで苦しみつづける」
「あ?」
リュドミラは片眉を吊り上げ、嘲るように笑った。
ニコが慌てて割って入る。
「まぁまぁまぁ! 分かりました。じゃあ、まずファーティマさんの話を聞きますから、ケンカしないで」
ファーティマは表情を変えずに、しかしどことなく納得したようにうなずいた。
と思ったのも束の間、今度は王女コンスタンツィアがガル・ガルを見つめて身を乗り出す。
「貴方、その胸当てとてもお似合いですのね! けれど、私が見るにシンプルな襟付きシャツの開いた襟元からスカーフの代わりにその綺麗な首周りの毛を見せるのがいいと思いますわ!『キレイめカジュアル』というコンセプトで! 上着には──」
「あの……姫様、そういうのはちょっと後にしてもらって……この後ちゃんと話を聞きますから……」
と、王女をたしなめている横で口を開いたのはヒルデだ。
「ニコ、あの猫人の男性を連れて来てはどうだろう。彼は色々とものを知っていそうだし……」
「それは私利私欲じゃないですか……」
すると、ニコの目の前で長机を踏み砕いたガル・ガルが、不意に振り返って言う。
「すまんニコ。ガル・ガルはテーブルを壊してしまった」
「あ……そうですね。でもほら、それは僕を守ろうとしてやってくれたことなので……」
これにリュドミラが異議を唱える。
「悪いのはファーティマだろ。しょうもない理由で呪術使いやがって」
「あー、じゃあ、その責任の割合は、あとで相談しましょうね。机のことは僕から管理人に謝っておきますから」
頭から毛布をかぶって、おそるおそるその様子を見ていたクセニアが、のっそりと立ち上がる。
「では、私はこの辺で……」
「いや、クセニアさんもいろいろと事情をご存知でしょうから、ぜひご意見を聞かせてほしくて……」
すると今度はファーティマが、香炉を隠していたのとは反対側の袖から1枚の紙を取り出してニコに渡す。
「クセニアの助言は有料だ。クセニアはファーティマに借金があるから、意見を聞きたかったらファーティマを通せ。こちらが料金表になります」
「てめえ、金とってんじゃねえよ図々しい」とリュドミラが吐き捨てる。
「クセニアはだいがくのせんせいをしていた。タダで話を聞こうとする方がずうずうしい」
「その料金表とやらをニコに渡すのがお門違いだって言ってんだ。田舎貴族の小国がどうなろうが、こっちは知ったこっちゃないんだよ」
「貴様! 我が国を愚弄するか!」ヒルデが腰に提げた剣の柄尻に手をかける。
「へぇ……アタシとやろうってのかい? ちょうどアタシも面倒くせえなと思ってたところさ。ここで全員殺しちまうか?」
「待って待ってリュドミラ! すぐ殺そうとするのはダメだよ。ヒルデさんも剣から手を放して。ファーティマさんも呪文唱えるのは一旦やめましょう。ガル・ガルさん、テーブルのことはちゃんと謝れば大丈夫ですからね──」
ニコは方々をなだめながら、こう思った。
(や、やることが多い……!)
ここで一度、前提を確認しておくべきかもしれない。
このニコ・オイレンシュピーゲルという人物は、結婚相談所の主人である。
王女の出奔であるとか、荒くれ者の刃傷沙汰であるとか、壊れた机の始末であるとか、そういうことを収めるのに何か特別な動機を持っているわけではない。
ただ、ちょっとした親切心からときどきこうした厄介ごとに首を突っ込むことがあり、またそれがあらぬ方向へと迷走していくという事態についてもそれなりに経験があって、それを信頼されてもいる。
そんなワケで、ここはとりあえずニコの進行に任せようという話になった。
なにしろこのまま殺し合いになれば、多かれ少なかれもれなく全員が損をする。
壊れたテーブルを挟んでそれぞれがもとの席におさまったとき、ニコは小さな咳払いをした。
それから、あれほど強引に話をしたがっていたファーティマの話をまずは処理してしまおうというくらいの了見で、発言をうながした。
「コンスタンツィアは、国に帰らないほうがいい」
ファーティマはそう言った。あまりに簡潔だった。
その隣に、コンスタンツィアはすました顔で座っている。
すでにファーティマの見解を知っているのだ。
「どうして」
ニコが首をかしげると、ファーティマは億劫そうにため息をついた。
「お前たちは、言っても分からないくせに説明させたがる」
「占いだ」毛布の中から声がした。
百識のクセニア。その長い生を知の探究に捧げた結果、よく分からない風刺文学を書くことになったという異色のエルフである。
頭からかぶった毛布に顔一つ分だけ隙間をあけ、おそるおそるこちらを見ている。
「占いって……当たるんですか?」
「7割というところだ。占いそのものが誤った出力をすることはない。しかし、解釈に幅のある啓示をファーティマが読み違えたり、ファーティマの言ったことを被占者が聞き違えることがある」
ファーティマは少し不服そうに鼻を鳴らす。
ニコは顎に手をあてて、クセニアとファーティマを交互に見比べた。
「それを含めて7割ですか……」
ファーティマの方ではもう少し的中率をフカシて、次の商売につなげようという魂胆があっただろう。しかし商売っ気のないクセニアが、正確な見積もりを吐いてしまった。そういうふうに見える。
それを含めて7割。これは無視できない数値に思えた。
クセニアの言うことが本当なら、占いそのものが間違えることはない。
そのことは、どう解釈されるべきだろう?
ファーティマは自身の占いを根拠として、コンスタンツィアは国へ帰るべきではないと言う。
それはつまり、複数の選択肢から(その選択肢の数は無限なのだろうか? それとも有限なのだろうか?)、ある選択肢を選んだ場合、ある運命が決定されているということを意味するのだろうか? さらに言えば、ある選択肢を避ければ、ある運命は回避され得るということを意味するのだろうか?
あるいは、いくつかの選択肢が与えられているように見えることさえ、単なるテクスチャーに過ぎず、本当はその中から何を選ぶかということさえあらかじめ決められているのだろうか?
エルフのクセニアは、豊富な知識と論理的な分析をする力を持ちながら、占いによる意思決定に異議を持たないように見える。
狼人のガル・ガルには、ファーティマの呪術が通じなかった。
── お前たち只人は、言葉しか分からない──
とダークエルフのファーティマは言う。
── アタシらに見えて、アンタらには見えないものもある──
猫人のミュシャはヒルデに向かってそう言った。
ニコの目は、ニコの視力の範囲でしかものを見ることができない。ニコの耳は、ニコの聴力の範囲でしかものを聴くことができない。
誰もが、その認知機能の範囲でしかものごとを知覚することができないのだ。
ニコの背筋を、冷たい汗が伝う。
僕は、世界について、何かとんでもない誤解をしているのではないか……?
「その占いって、どうやってやるんですか?」と、おそるおそる尋ねた。
「やり方はいろいろある」と、ファーティマは少し考え込むような間をおいて、足下に落ちた香炉を拾った。「ちょうど、香炉に入っている、この『プァーカッタラッマーヤナ草』を使ったりな」
んっ? と、一瞬ニコは眉間に力が入るのを自覚した。
「プァっ……カッ……えっ?」
「プァーカッタラッマーヤナ草だ」
ニコはほんの短い間、とてもたくさんのことを考えた。
そして、プァーカッタラッマーヤナ草については一旦わきに置くことにした。