13.私娼窟の女帝ヴィオレッタ
「まったく! 失礼な男だ! なあ、ニコ! そうは思わんか!」
ヒルデは通りに響くような声をあげる。
胸の鼓動が強く脈打っている。その音で、声の調子がうまく測れなかった。
「まあ確かに、あれはちょっと失礼でしたね。ただ、悪気があったわけではないので……」
「それはな! 確かにな! 悪い人じゃなさそうだとは、私もな! 綺麗な毛並みをしていたし! 瞳も宝石みたいで……」と言った辺りでハッとした。
「ははは……」ニコが愛想笑いだとよく分かるような声で笑う。
「いや、まあ、そういう感じのアレではないけどな!」
ということは、強く言っておかなければならない。
そういう感じのアレではないし、そういう感じのアレをしている場合でもないのだ。
自分は一国の王女を連れ帰るという密命を帯びていて、それをコテンパンに失敗している真っ最中だ。
このままでは「ガキの使いにもならんクソ雑魚女騎士」の汚名を着せられ、後輩にはすれ違うたびため息をつかれ、同期には鼻で笑われ、果ては上司に肩を叩かれ──ということを、割と真面目に心配していたのである。
些細なことにかかずらわっている場合ではない──のであるが。
「彼はその……行商というと、こう、各地を渡り歩いたりしているんだろうか。現代の騎士としては、その、いろんな土地の情報というか、時代の、そういうアレを、こう、上手いふうになる感じで……」
路地から路地へと、迷路のような裏道を伝って、どこへ向かうとも知れず歩きながら、ヒルデは質問と独り言の中間くらいの声で呟く。
「ああ……えーと……そうですね。彼と話すと、勉強になることも多いです。物知りというのもそうですけど、やっぱりものの見方が違いますからね。自分の常識なんて案外それほど確かなものじゃないって気付かされることが、よくありますよ」
「そうか……」
というようなことを話している内に、辺りを何やらいかがわしい雰囲気が漂い出しているのに気付いた。
石造の巨大な館が、通りの一区画を堂々と占めて往来を睥睨している。
外に張り出した石柱の彫刻や、欄干に施された精密な細工、恥じ入るように白く染められた漆喰塗の外壁……ここより大きな建物は他にもあろうが、これほどよく手入れの行き届いた館は他に覚えがない。
街の中枢にあたる庁舎か何かと言われても頷けようものだが、それが都市全体から見ればずいぶん西に外れた通りにあって、しかも奇妙なことに、窓はいずれも寡黙な老婆のように厚いカーテンが引かれ、いよいよ高く登ろうかという日の光を拒んでいる。
そして視野を広げれば、この建物だけが別の世界から唐突に現れたものであるかのように、周囲の景色は猥雑を極めていた。
建物の規模や造りはまちまちだが、共通しているのは玄関先の外灯にはどれも色ガラスが嵌められ、灯せば赤や桃色で戸口を照らすようにできていることである。
(私娼窟だ……)と気付いた。
この巨大な建物も、娼館に違いない。
すると、ある恐ろしい考えが押し寄せて、彼女の背に冷たいものを落とした。
つまり……このニコという男が営む『結婚相談所』とは、女衒の隠語だったのではないか……?
思わずあの言葉が口をつく。
「くっ……殺せ!」
「えっ、何で?」
ニコが目を丸くして見つめる。
「確かに……私はこの街に来て何一つ成果を挙げていないが、しかし……かといって『みんなが上手く収まるように力を貸しましょう』みたいに拐かして、その一手目が『まず、服を脱ぎます』というのはあまりに酷では……」
そう言う間にも、彼らは巨大な娼館のすぐ前まで差し掛かっている。
と、その入り口の大きな扉が、囁くようにかすかな音をたてて、開いた。
その扉の隙間から、一人の女がゆったりとした速度で現れると、耳をそばだててやっと聴こえるような声で言う。
「少し、静かにしてもらってもいいかしら。お姫様たちが、夜に備えて眠っているの」
(エルフ……)
ヒルデは息を飲んだ。
顔の両側に長く伸びた耳は、先がやや尖っている。
胸元の大きく開いたドレスは、昼日向にあっても光という光を飲み込むほど黒く、透き通るように白い肌との間に厳格な境界を引いている。
身体の輪郭は滑らかで豊かな曲線を描き、指先まで意識のかよった優雅な仕草や、深い紅に色づいた唇、どこを取っても意識を吸い寄せる抗いがたい引力を持っていた。
「ヴィオレッタさん、こんにちは。騒がしくしてすみません。ドレス、とてもお似合いですね」
ニコが慣れたふうに言うので、ヒルデはかえって驚いた。
ヴィオレッタと呼ばれたエルフの女は、口元に涼しげな笑みを浮かべ、「ありがとう、坊や」と答えると、それから今度は琥珀色に輝く瞳をリュドミラに向けた。「さすが、躾けが行き届いているわね」
リュドミラは困ったように眉尻を下げる。
「アタシとニコは対等だ。躾けるとか、そういうんじゃないよ」
「あら、対等な人間関係なんて、この世にあるわけないじゃない。必ずどこか非対称なものでしょ? あなたがそう感じないのなら、それは相手が努力しているからよ」
リュドミラは何か言いかけてから、キマリが悪そうに目を逸らした。
ヴィオレッタという女は愉快そうにその様子を眺めると、今度は後ろの方で所在なさげに立ち尽くしていた狼人のガル・ガルに声をかける。
「良かったら、貴方も今度遊びにいらっしゃいよ。『勇者ガル・ガル』のお名前には、ウチのお姫様がたも興味深々よ。それにこの街では、私のお店で遊ぶことがステータスになるから」
するとガル・ガルはぷいっとソッポを向いて、首を小さく横に振った。
「あら、つれないのね」と、女は一層可笑しそうに微笑む。
──これは、何だ? ヒルデは呆然とその様子を眺めながら、口元をこわばらせる。
リュドミラとガル・ガル、この2人が脇を固めている以上、手出しするような者はまずいないということだった。そんな2人の戦士が、およそ暴力とは縁のなさそうな、美しい女の手玉にとられている。
「彼女はヴィオレッタさん。この辺りのお店を一手に仕切っています」とニコが言う。
(それはそうでしょうね!)と内心強く吐き捨てる。見れば分かる。もう佇まいからして只者ではない。
「ヴィオレッタさん、こちらはヒルデさんです。ツィーゲルツハイン王国で騎士をなさってるとか──」
ニコはそう言って、ヒルデの事情をかいつまんで説明した。
「事情はなんとなく分かるけど、このお嬢さん、何か勘違いしてるわよ」
とヴィオレッタ言うので、この潮目を逃すまいとヒルデは思い切って口を開いた。
「あの……方々に迷惑をかけたので、『体で返せ』みたいなことでは……?」
「ああ、すみません。先に説明しておけば良かったですね」とニコは大きな目をぱちくりさせながら笑う。「今回の件を丸く収めるためにまずやるべきことは、ヒルデさんがドミニクさんに『ごめんなさい』することだと思うんです」
ヒルデは驚いて眉根を寄せる。
「いや……ごめんなさいって……。それは、まあ道義上そうだとしても、『チンピラ雇って馬車を襲わせてごめんね』『いいよ! もうしないでね!』ってなるか?」
「なると思うわよ」と言ったのはヴィオレッタである。「間違ったことのない人なんて、この街にはいないもの。他じゃどうか知らないけど」
いや、その理屈はどうか……という疑問は強かったが、言える立場ではなかった。
ニコがそれを察したように、こう付け加える
「なので、ヴィオレッタさんに間に入ってもらおうと思いまして」
「なぜ……?」
ヒルデは眉根を寄せる。人選が謎だ。
するとヴィオレッタは優しげに微笑んで、ゆっくりと、口溶けの良い砂糖菓子を舌で転がすように言った。
「ドミニクは、私の夫だもの」
理解するのに時間がかかった。
ドミニクというのは、王女コンスタンツィアの王国脱出に際してその移送を請け負った運び屋で、分厚い体躯の山賊のような男である。
「品性」などという言葉など、生まれてこのかた聞いたこともないといった風体で、子どものころは鼻くそを丸めて飛ばし、犬のフンを枝でつついて遊んでいたに違いない。
一方、このヴィオレッタというエルフは、まるで一幅の絵画から抜け出してきたような女である。
うつろげな肌の白さといい、もの憂げな目元の長いまつ毛といい、指の先までたおやかな仕草といい、いかな王侯貴族の珠襦玉匣といえども、これより美しいことはない。
そのヴィオレッタの夫が……ドミニク……?
「だいぶ上手くやったなあの男!」
思わず声を上げると、リュドミラがうなずいた。
「それはこの街じゃみんなが思ってる」
「あれで可愛いところもあるのよ」
ヴィオレッタが可笑しそうに言うと、どこか影のある面立ちに、ふと光がさしたように見えた。
と、通りの向こうから遠く聞こえていた馬蹄の音が、にわかに勢いを増して近づいてくる。それはガタガタと石畳を踏む車輪の音を伴って急速に押し寄せたかと思うと、男の怒号にかき消された。
「ヴィオレッタァーッ!」
見れば、分厚い体躯の山賊のような男が必死に馬を鞭打って急かしている。
ドミニクだ、と気付いた。
彼は片手の鞭を通りへ投げ捨てると、その手を脇の下へ伸ばした。
リュドミラが、ヒルデの隣にすっと歩み出る。
次の瞬間、ヒルデの鼻先にはナイフの鋭い切っ先がツンと触れて、その柄をリュドミラが掴んでいた。
「おお……あのオヤジ、躊躇ねえな」とリュドミラは感嘆の声を漏らす。
再びドミニクに目を向けると、彼はいつの間に引っ張り出したものか、柄の長い戦鎚を構えている。
(あ、殺す気だ……)
ドミニクは殺す気でヒルデにナイフを投げ、殺す気で得物を構えているのだ。
遅れて来た恐怖に肌が粟立つ。
と、視界の端でヴィオレッタが小さくため息をついた。そして通りの真ん中、猛進する馬車の正面に、優雅な足取りで躍り出た。
ドミニクは強く手綱を引く。
馬が反り返って、二、三度激しく前足で宙をかき、馬車は石畳の上を横滑りして、彼女のすぐそばに停まった。
御者台を飛び降りたドミニクが片腕にヴィオレッタ素早く抱き寄せ、こちらを睨んで叩きつけるように叫ぶ。
「ウチの嫁に手ぇ出すなら、相手が誰だろうが関係ねえぞ俺は!」
しかし、ヴィオレッタがなにか囁くと、ドミニクは少し目を見開き、体のこわばりを解いて、ものものしく構えた戦鎚をだらりと下げた。
2人は何かこそこそと会話を交わす。
ドミニクの声だけが、時々漏れ聞こえた。
「え……そうなの? いや、お前が言うなら……まあ……」
その合間合間に、ヴィオレッタがドミニクの頬をつついたり、手を握ったりする。と思うと、ドミニクはおもむろに馬車の荷台の幌を少しめくって、その隙間から小さな花を渡した。
「いや、別に……なんか咲いてたからよぉ……」野太い声がじわりと沁みるように通りに響く。
それは、本当にそこら辺の道端で摘んだような、一輪のちっぽけな花である。
しかし、ヴィオレッタは心底感じ入ったふうにその花の匂いをかぐと、ドミニクの首に腕を回して頬ずりをした。
(いったい……何を見せられているのだ……)
呆然として立ち尽くすヒルデを、ドミニクが思い出したように睨んだ。
「事情は分かった。話を聞いてやる」