11.女騎士ヒルデ
朽ちた土壁が欠片を散らしながら崩れて、寸刻前には粗末な木戸がはめられていた勝手口から、おぼろげな光が射した。
もう使われなくなって久しいのだろう。床に溜まった埃が倒れた木戸に濛々と巻き上げられ、その奥にいる女の姿を霞ませるほどだった。
女は部屋の奥に膝をついて、予期せぬ闖入者(闖入者とは予期せぬものだが)に驚いてか、素早く腰に提げたレイピアの柄尻に手をかけた。
リュドミラは女を油断なく見据えながら、一歩、ゆっくりと前に出て、幅の広い自身の体躯にニコを隠す。
女が剣を抜くなら、その刀身をへし折って脳天に突き立ててやるつもりだ。
しかし、女騎士はガル・ガルとリュドミラの姿をみとめると、賢明にもすぐに彼らの実力を察したようだった。
「くっ……殺せ!」
「何というか……時代錯誤ってヤツだね」
リュドミラは呆れたように呟く。
首から腰回りにかけてを覆う分厚い板金鎧は、正中線から脇にかけて緩やかに傾斜している。
マスケット主体の戦場において、銃弾をその傾斜に沿って逸らす役割を期待したものだろうが、「よほど運が良ければ」というカッコ書きを除くことはできそうにない。
ふーん……と鼻の奥から気の抜けた声を出して、ニコがリュドミラの脇からひょっこりと顔をだした。
「こんにちは。はじめまして。僕はニコ。ニコ・オイレンシュピーゲルといいます。この街のはずれで結婚相談所をやっています」
「結婚相談所……?」
女はふと、きつく結んでいた口元をゆるめる。
ニコの口ぶりがあまり呑気で、幾分毒気を抜かれたらしい。
それは彼の持つ優れた資質の一つである。
女騎士は手負の獣のように、ひどく怯え、気が立っていた。
ニコの声には、そういう緊張を和らげる不思議な響きがある。
彼が話し始めると、ここが打ち捨てられた廃屋だということさえ忘れそうだった。焼きたてのパンと紅茶の匂いが漂う陽だまりの中にいるようだ。
獣人のガル・ガルはいつの間にか壊れた木戸を跨いで、大きく口を開けた勝手口から、外を見張る役についている。このガル・ガルという男は、この街最強の戦士リュドミラをして『勇者』と言わしめる傑物だが、いかんせん人見知りが激しいとみえて、会話に加わることを好まない。
そんな中、ニコは学術書から気になる一文を探すような間を空けて、遠慮がちにたずねた。
「つかぬことをお聞きしますが、商売のご経験ってお持ちですか?」
「……なぜだ?」と女は訝しむ。
リュドミラは、ああ、やはりこの女がそうなのか、と内心うなずいた。
事情を知らぬ者からすれば、ニコの質問はいささか突飛だろう。
猫人の商人ミュシャの赤い糸が、どういう因果かこの女に結ばれているのだ。
「実は、売り子さんを探している商人の方がいまして。えっと……雑貨屋さん? ってことになるのかなぁ。詳しくは、直接聞いてみないと分からないんですが」
と、ニコは微妙に事情をぼかしながら喋る。
「私に、雑貨屋の売り子をやれと?」
女騎士の眉間に再び深いシワが寄った。
「いえ、もちろんご興味があればということなんですが……」
「私は騎士だぞ。見て分からんか」
「見て、というか、それはまあ、とてもよく分かるんですが──」
「だとすれば、答えは自ずから決まっている」
ニコと女騎士のやり取りを眺めているうちに、リュドミラはやや苛立ちを感じはじめていた。
偉そうな口ぶりが単純に気に入らないし、立場というものを弁えていない。
しかしリュドミラが口を挟まなかったのは、こうしたトラブルを収めることにかけて、ニコの実力を信頼したからである。
ニコはそのぷっくりした頬や、つややかなくちびるからは想像できないくらい理知的な声で、疑問を投げかけた。
「そうでしょうか? あなたが『騎士』だというのは、一つの“状態”にすぎないのではありませんか? それも、そう遠くない未来に失われようとしている、一つの状態に」
「何が言いたい……?」
「あなたが騎士だというより他に、僕にはもう一つ、見て分かることがあります。あなたは今、困っている。ドミニクさんは怒っています。ここの住人を使ってドミニクさんの馬車を狙い、この街に来たお姫様を連れ去ろうとしたから」
女騎士はそれを聞くと声を荒げた。
「貴様! 姫の居場所を知っているのか!?」
「ええ。でも、それをお教えする前に、あなたにはやるべきことがあると思います。あなたの作戦は失敗し、前金は持ち逃げされ、逆に追われるハメになった。そのまま手ブラで帰るわけにもいかないでしょうし、次の作戦を立てるにしても、仲間もいなければお金もない。それどころか、おちおち外も出歩けないような状況じゃありませんか?」
「くっ……殺せ!」
その状況を自分に置き換えてみると、まあ殺してほしいのも分からんでもないとリュドミラはうなずきかけたが、ニコは珍しく、少し語気を強めてこう言った。
「それ、やめた方がいいと思いますよ。この街ではみんな本当に命懸けで生きてるから、簡単に命を投げ出すような言い方には腹を立てる人も多いんです」
ニコが意外に強く出たので面食らったものか、女騎士は不安げに目を伏せて、頼りなく呟いた。
「でも……本に書いてあるから……」
「本……?」
ニコが首を傾げると、女騎士は腰に提げた雑嚢から一冊の本を取り出して、ニコの足下に投げた。
表紙には、甲冑を着た女騎士の絵が、笑顔で教鞭をつまみ、太く印字された本のタイトルを指している。
『新しい時代を生き抜く女騎士になるための44のステップ』
ニコはそれを拾いながら、率直な感想を呟いた。
「多いですね……ステップが」
「新しい時代の女騎士だから……」
彼の肩越しにその本を覗くリュドミラの前で、ニコが表紙をめくった。
○目次
・激動の時代! 今こそ『女騎士』であるべき7つの理由
・「叙任したい!」と貴族に言わせる女騎士はココが違う!
・「くっ……殺せ!」で、本当に殺された女騎士がいない理由
・デキる女騎士は馬のたてがみを見れば分かる!
・騎士に貞節はもう古い!? バリキャリ女騎士の賢い恋愛術!
──「……とりあえず、目先の話をしましょうか」
ニコは首をかしげて、本を女騎士に返す。
その内容について触れないことにしたのは、リュドミラと同じように、「あまりよくない本だ」という印象を持ったためだろう。
ニコは続ける。
「あなたは、ツィーゲルツハイン王国の騎士、ということで合ってますか?」
女騎士は、この期に及んでまだ身分を明かすことを躊躇したのか、一瞬言葉に詰まってから、「そうだ……」と答えた。
「つまり、あなたはコンスタンツィア姫を王国に連れて帰らなくちゃいけない。けれど、姫様は姫様の目的があってこの街に来たはず。その目的が果たされなければ、きっとまた折を見て脱走するんじゃないでしょうか。だから、姫様の目的を果たすことが、結局あなたの目的を達成することにもつながるのでは?」
「そう簡単な話ではない」
つい先ほどまで歯切れの悪い反応をしていた女騎士が、ここにきてキッパリとそう言い切ったので、ニコとリュドミラは少し引き込まれるように彼女を注視した。
「その口ぶりから見て、あなたたちは姫と話をしたのだろう。どういう印象を持った?」
「あー……」とニコが言い淀むのを、すかさずリュドミラが引き継ぐ。
「何言ってんだか、ワケが分かんなかったね」
それを聞くと、女騎士はうなずいた。
「姫は、話す相手を選ぶ」
「つまり、僕たちにはいい加減なことを言ったということですか? 選ばれなかったから」
「誤解のないよう補足すれば、あなたたちを低く見たわけではない」
女騎士のじれったい話ぶりに、リュドミラはいよいよ声をあげた。
「だったら何なのか、最初っから分かるように説明しな。雰囲気出してんじゃないよ一丁前に!」
しかし騎士は怯まなかった。どうやらこの事柄に関しては、それなりの覚悟を持っているらしい。
「説明が難しいのだ。というのも、私自身、姫のお考えを十分に理解しているわけではないからだ。ただ、確実に言えることは、姫はある種の天才だということだ」
「いやだから──」
もっと分かりやすく言えよ、と言いさしたリュドミラを、ニコが遮った。
「姫様は、思想犯として罪に問われる恐れがあるんですね?」
女騎士は躊躇いがちにうなずいた。
「マジかよ。アンタ、下らねえ本読んでる場合じゃねえじゃん」
リュドミラが思わずそう言うと、女騎士は目を丸くした。
「え……? あの本は、下らないのか……?」
ニコが割れた陶器の破片を拾うような慎重さで口を開く。
「えっと……あの本が下らないかどうかは、価値観によるのでちょっと置いておきましょう。で、分からないことがあるんですが、王国でも姫様の側に立った人がいるんですよね。ドミニクさんに姫様の移送を依頼した人は、姫様本人じゃなかった。つまり、彼女が王国を出るのを手引きした人がいる」
女騎士は目を伏せ、ほんの短い間だが、しかしとても深くものを考えるように沈黙して、それから言った。
「それ以上深く事情を話すには、あなたたちに姫様を害する意思がないという確信がほしい。それから、この話を外部に漏らす恐れがないかということも」
リュドミラは鼻で笑った。
「残念だが、そんなことを確信する手段はこの世に存在しない。あるのは条件と状況だけだ」
女騎士は苦々しげに奥歯を噛む。
「ああ。真っ暗な可能性の海に、自分自身を投げ込む。私たちに許されるのはそれだけだ。だが、どうせなら自分の納得した方向に投げたい」
リュドミラはニコの顔を覗き込み、同意を求める。
彼が微笑みながらうなずくのを見ると、思いの通じるのを感じた。
「いいだろう。アンタ、名前は?」
女騎士は簡潔に答えた。
「ヒルデ・クルツ」
「OK、ヒルデ。場所を替えよう。それから、外で見張りをしてる狼人に敬意を払え。一番にアンタを助けようとしたのはあの男だ」
それを聞くと、ヒルデは出がけにすれ違ったガル・ガルに短く礼を言った。
ガル・ガルは無言でうつむき、横に首を振る。
「その前に、一つ聞きたい。ニコ、結婚相談所の主人が、なぜ私を助ける?」
ニコはそれを聞くと、顔を綻ばせて答えた。
「得意なんです。こういう絡まったものを解くのが。ですから、みんな僕のことを『糸繰のニコ』って呼びます」
その時だった。
「あれ? ニコのダンナ!」
路地に接する通りから、こちらに声をかけたのは猫人の商人ミュシャである。
リュドミラがニコの顔を覗き込むと、その可愛い顔には(あちゃ〜……)と書いてあった。