10.地獄の番犬ケルベロス
一匹の黒犬が、朝の往来を通る。
大きな犬ではないが、硬く黒い体毛を逆立てながら、肩をいからせ背をそびやかして歩く姿は、例えば軍隊の列中にあっても取り分け目を引く勇壮な軍人に似ている。
「あ!『地獄の番犬ケルベロス』だっ!」
路地裏で棒切れを振り回し、冒険者ごっこに興じていた子どもたちが表通りに飛び出して、からかい半分彼に声をかける。
黒犬がフンッと鼻を鳴らして彼らの横を通り過ぎると、子どもたちの中でも特段目立ちそうにない縮れた髪の男の子が声をあげた。
「野良犬のくせに、生意気だぞ!」
二本足で歩く連中というのは、概して自分たちが他の動物より賢いと自惚れている。
彼らの思い違いをいちいち並べ立ててはキリがないので割愛するが、この子ども一人を例にしても、まず自分が犬より強いと誤解しているし、(仮にその誤解を真として扱うにせよ)弱者を恫喝して自らを強く見せることを勇気と誤解している。
やれやれ、と黒犬はため息をつくと、子どもたちを叱りつけるように低い声で吠えた。
子どもたちは野良犬を恐れてめいめいに一歩後ずさったが、件の縮毛の少年だけは、ここで度胸を見せつけて、逆に仲間内でも一歩抜きん出ようと考えたらしかった。
足下の小石を拾い、黒犬を睨む。
黒犬も喉の奥で低く唸りながら、少年を睨み返した。
危険を避け、強者におもねり、弱者を喰らう生き方は、なるほど生物として合理的だろう。その上、仲間内でも認められるとくれば、これほど安上がりなことはない。
しかし『誇りある生き方』とは、そうした合理性に背を向けて、意志を貫徹する構えを言うのだ。
──来るなら来い。
少年がいよいよ小石を振りかぶった時、睨み合う1人と1匹の間に、長屋の陰から低い風切り音を立て、朝日を鈍色に照り返して分厚い鉄の板が飛んだと思うと、石畳を砕いて細かな礫を飛ばした。
鉈とも段平ともつかぬその分厚い刀身は、割れた石畳の間に深く突き立った。
少年は驚いた拍子に、握っていた小石をまるでアサッテの方向へ投げる。
それは長屋の土壁にあたって跳ね返り、黒犬の尻を打った。
正面からの投擲には十分に構えていた黒犬も、予期せぬ角度から尻を打った小石に驚いて思わず高い声をあげる。
しかしその声は、長屋の陰から現れた獣人の一喝によって隠された。
「それは、お前の勇気の証明にはならない」
低く、深く、よく通る声だった。
子どもたちはわっと声をあげて一斉に逃げ去る。
しかし当の縮毛の少年だけは、足が竦んだか、覚悟を決めたか、そこから一歩も動かなかった。
ただ一瞬のうちに色の褪めた唇をわななかせてその場に立ち尽くす少年のそばまで獣人は詰め寄り、無言のまま彼を見下ろす。
その眼差しに、少年は何かを感じ取ったのかもしれない。首振り人形のように細かく何度も頷くと、獣人が「行け」と言うのに従って、二、三歩後ずさりをして、走り去った。
獣人は石畳に突き刺さった分厚い刃物を軽々と引き抜き、黒犬を見下ろして、にわかに表情をやわらげた。
「すまんな。ガル・ガルが急に剣を投げたから、あの子はびっくりして石を投げてしまった」
そう言いながら黒犬のそばに屈み、石のあたった尻の辺りの毛を分ける。
そこに鋭い痛みを感じ、黒犬はうめいた。
「あの子に、もっと上手く言ってやれれば良かったんだが。ガル・ガルは人と話すのが苦手だから。犬と話すのは得意なんだが」
獣人は腰帯に提げたヒップフラスコを掴んで、その中身を一口あおったと思うと、黒犬の傷口に吹きかけた。
傷口が灼けるように痛んで、奥歯を噛み締める。
獣人は次いで皮袋から丸めた包帯を取り出すと、黒犬の股を通して傷口に巻いた。
「誇り高き野良犬ケルベロス。お前なら、これだけやっておけば大丈夫だ」
顔を寄せた獣人の鼻先に、黒犬は自身の鼻を触れた。
また一つ、ここの住人に借りを作ってしまった。
と、その時である。
「ガル・ガルさん! どうしました?」
不意に舌足らずな幼い声が往来に響いた。
それは声音こそ幼い少年のようだったが、その響き方には、名手の弾く若い楽器のような独特の奥行きがあった。
黒犬はこの声をよく知っている。
ニコ・オイレンシュピーゲル。
男女を番にすることを生業にしているらしい不思議な人物で、見たところ子どものようなのだが、黒犬が物心ついた頃からちっとも大きくなっていない。
ニコは黒犬をみとめると、「あ! 地獄の番犬ケルベロス!」と嬉しそうな声をあげた後で、包帯に気付いたらしく眉尻を下げた。「怪我をしてしまったんですね」
黒犬は、二本足の連中が『地獄の番犬ケルベロス』という大仰な仇名に、ある種の皮肉を込めていることを知っている。
しかし、このニコという人物からはずっと、そうした侮りの匂いがしなかった。
その点において、黒犬は彼を気に入っていた。
ニコの隣には、牛のように大きな女の二本足がぴったりと寄り添っている。
これも界隈では相当に名の知れた女で、何でもこの街で最強の戦士だというが、どうも昨晩はとても良いことがあったと見えて、機嫌の良い匂いをしている。
黒犬の見るところによると、どうやら3人は人を探しているようだった。
ああでもない、こうでもないと、その行方について話し合っている。
獣人が唸って、「ガル・ガルの鼻も、犬ほどは利かないからな──」と言った次の瞬間、3人の視線が揃って、黒犬に集まった。
「ガル・ガル、何とか上手いことこの犬に説明して匂いを辿れない?」と大きな女が言う。
しかしガル・ガルは首を横に振った。
「お前たち『猿の獣人』も、猿と話せるわけではない」
やれやれ、と黒犬が鼻から息を吐いた時、ニコが首を傾げながらこう言った。
「でも、ケルベロスには僕たちの言うことが分かっていますよね」
「犬はガル・ガルの言葉が分かる。ガル・ガルに犬の言葉が分からない」
なかなか見込みのある奴らだ、と黒犬は感心して唸った。
大抵の二本足はどういうわけか、やたらと話しかけてくるくせに自分の言葉が犬に通じることはないと考えている。
そのくせ自分たちがこの世でもっとも知恵のある動物だと信じているのだから、まったく呆れたものだ。
大体、言葉を理解していれば自分の言うことに従うはずだという考え自体が根本的な心得違いなのだ。
それに比べれば、このニコやガル・ガルというのは分かっている。
相手に意思が伝わっているかどうかを自分の目で見て判断するだけの知性を持っているのだ。これは二本足にしては極めて珍しい資質である。
黒犬はその鋭敏な嗅覚を、この3人組にちょっと貸してやってもよかろうという気になった。
「ワン!」と一言強く吠えると、太い尻尾をきりりと巻いて歩き出す。彼らが探している人物に心当たりがある。
「付いてこいってことかな……」
ニコが呟くと、その隣に寄り添っていた大きな女が頷いた。
「他にアテもないしね」
*
バルバベルクというのは、2つの大きな山の間から南に広がる扇状地に築かれた街だ。
この街の基幹産業である魔石を産出するダンジョンというのは、この山の片方に深く根を伸ばしている。
その鉱脈が発見されると、ちょうど山から流れた土砂が堆積してこの地形を作ったように、まず山の麓から人が集まり始め、やがて傾斜のある扇形の土地に流れ出して居住区を無節操に拡張していった。その結果出来上がったのが、ダンジョンを起点として放射状に伸びた街道と、不規則にそれらを繋ぐ無数の脇道とが入り組んだ、迷路のような街である。
ニコ、リュドミラ、ガル・ガルの3人は、訳知り顔で先導する黒犬の後をついて行く。
そうする間にも、顔に見覚えのある冒険者たちをちらほらと見かけた。おそらくドミニクに声をかけられ集まった仲間たちだろう。
彼らを先回りして、この街に入った余所者を見つけなければならない。
……いや、「なければならない」というほど、ニコたちに強い動機があるわけではないが、そうしてやらなくては気の毒だし、ワケの分からない王女が抱えた事情を知るにも多少の手掛かりが期待できるかもしれない。
『負け犬長屋』の角から『ボッタクリ横丁』を抜け、『アバズレ通り』を斜めに渡り、『掃溜め広場』を横切って『ボンクラ通り』の中ごろから右手に伸びた細い路地にさしかかった辺りで、地獄の番犬ケルベロスが立ち止まり、短く吠えた。
勇者ガル・ガルは、その誇り高き野良犬の前に膝をつき、顎の下から首の周りを撫でた。
「ありがとう。ここまで来れば、ガル・ガルにも匂いで分かる」
そして腰の革袋から干し肉を一枚取り出してケルベロスの口に噛ませると、おもむろに立ち上がって路地の奥へと迷いなく踏み出した。
ニコとリュドミラもその背中を追って路地に入る。
それは、誰からも忘れ去られたような路地で、「両脇にある建物の間」という以上の意味はどこにも見当たらなかった。
「なるほど、ボンクラ通りってのは盲点だったね」とリュドミラが漏らす。
というのも、そこはバルバベルクでもっとも下らない連中が軒を並べる通りとされ、ほとんどの住人が関心を示さない場所だからだ。
そこに暮らすのは主に領地を追われた没落貴族で、自分の血統が大貴族の誰それにどのくらい近いかというようなことで順位を争っている。しかし、それも元の領地から持ち出せた財産を食い潰すまでのことだ。
どの家も表通りに面した外壁だけが綺麗に塗装されているが、この路地を挟む壁などはどこも粗末な土壁で、その朽ちた破片が路地を砂利のように覆っている。
ガル・ガルは辺りを見回しながら鼻先をクンクンと細かく動かして、やがて古びた勝手口のドアの前で止まると、ニコとリュドミラに目配せした。
身の厚い片刃の剣を抜いて右手に握り、左手でノブを掴む。と、その拍子にドア枠を支えていた土壁が崩れて、木戸はそのまま冗談みたいにバタンと奥へ倒れた。
倒れたドアの先は、ちょっとした物置みたいなところだった。
その奥に、一人の女がうずくまっている。
彼女は、創作物の登場人物とすればあまりに陳腐で、現実の人間にしてはかなりの変わり者に見えた。
まず発した言葉がこうだ。
「くっ……殺せ!」