元婚約者の幼馴染を振り向かせるために宮廷治癒師を目指していたら、いつの間にか『救世の聖女』と呼ばれるようになっていました
『シャルちゃん、大きくなったら僕と結婚してくれないかな?』
『うん。私もソルベくんのこと大好きだからいいよ!』
小さい時、同じ村に住む幼馴染とそんな約束を交わした。
独りぼっちで友達がいなかった私――シャルロット・プリエール。
そんな私に優しく声を掛けてくれた幼馴染――ソルベ・フォンドル。
物心ついた時から一緒にいるソルベに、私は強い恋心を抱いていた。
友達がいない孤独な私を、唯一ソルベだけが気に掛けてくれて、自分にはこの人しかいないと思った。
だから結婚してほしいと言われてすごく喜んだことを、今でもよく覚えている。
軍人を志す彼が、入隊試験を受けるために十二歳で王都に旅立つことになって、その時のことを今一度思い出してしまった。
そして出発当日。
ソルベを見送るために馬車乗り場に来た私は、昔の約束を思い出しながら彼の背中を見つめる。
ソルベが家族や友人たちとの会話を終わらせて馬車に乗り込もうとするところを、銀色の前髪の隙間から見つめていると、最後に彼は私の方を振り返って笑みを見せてくれた。
「それじゃあ、行って来るよシャル」
「うん、行ってらっしゃいソルベ」
それだけで私たちの会話は終わってしまった。
まあ、小さい頃の話なので、きっと彼も覚えていないだろう。
幼少の頃の結婚の約束なんて、よくある子供の戯言なんだから。
密かに落胆しながらそう思っていたのだが……
ソルベは鮮やかな青髪を靡かせながら、中性的な顔を私の耳元に寄せて、小さな声で囁いた。
「……あの時の約束を、覚えているかい?」
「えっ?」
「十八になった時、必ず立派な軍人として君を迎えにやって来る。だからその時になったら、俺と結婚しよう」
「……」
思いがけず、瞳の奥が熱くなった。
彼もちゃんと、あの時の約束を覚えていてくれたのだ。
改めて結婚の約束を結ぶことができて、私は嬉しさを噛み締めながらソルベを見送った。
それから彼とは、手紙でやり取りをするようになった。
私は実家の治療院の手伝いをしながら、定期的に飛脚さんが届けてくれる彼からの手紙を楽しみにしていた。
無事に入隊試験に合格できたことも手紙で知り、さらにソルベは三年後の十五歳で、一般兵から兵を統率する下士官に昇進した。
その知らせを受け取った時は、まるで自分のことのように喜んでしまった。
ソルベは亡くしてしまった傭兵のお父さんに憧れて、たくさんの人たちを守れるように王国軍に入りたいと願っていた。
下士官になればもっとたくさんの活躍ができるし、国民のみんなからも認めてもらうことができる。
この頃から忙しくなってきたのか、少しずつ手紙の返信が減ってきた。
寂しいことだと思ったけれど、それだけソルベが国民のみんなのために頑張っているのだと思ったら、私は逆に嬉しい気持ちになれた。
そして十八歳になった時、また驚くべき知らせが届いた。
ソルベの手紙からではなく、王都から流れてきた噂によって私はそれを知った。
彼は、未開拓領域の遠征調査中、三十年前に中央領の町に甚大な被害を出した巨大魔獣と交戦し、それを単独で討伐したとのことだった。
結果、ソルベはその功績を称えられて、国王直々に『近衛騎士』に任命された。
「フォンドルさんのところのソルベ君、王様の警護をする近衛騎士に選ばれたんですって」
「平民が近衛騎士団に所属するのは五十年振りのことだそうだ」
「ソルベはこの村の誇りじゃな」
近衛騎士は王国に住む者たちにとって、これ以上ないくらい誉れある称号である。
王国軍から大出世して近衛騎士団に所属することになり、故郷の村のみんなもとても喜んでいた。
その婚約者である私は、誇らしいというよりもソルベの笑顔を想像して嬉しい気持ちになっていた。
何より約束の十八歳ということで、ソルベがいつ帰って来るのかそれだけが楽しみで仕方がなかった。
けれどソルベは、一向に村に帰って来ることはなかった。
十八を過ぎて十九になり……
さらに十九を過ぎて二十になり……
それでもソルベは村に戻って来ることはなかった。
きっと忙しいのだろうと思った。
近衛騎士は国王様を直々にお守りするとても責任ある職務だし、騎士になってからは手紙の返信もまったく届かなくなったから。
「……よし」
それなら、自分の方から会いに行ってしまおう。
私はそう考えて、実家の治療院の手伝いを二週間ほど休ませてもらい、王都に向かうことにした。
彼からしたら迷惑かもと思ったけれど、遠目からソルベが頑張っているところを見るだけでもいいと思った。
そして王都に辿り着いた私は……
そこで、とんでもない光景を目の当たりにすることになる。
宮廷に宿舎を持つ近衛騎士団の人間とは、すぐに会うことができないと思った。
しかしたまたま非番だったらしいソルベと、ばったり街中で出会うことができた。
そんな彼の隣には、“見知らぬ若い女性”がいた。
「ソル、ベ……?」
「……シャルロットか?」
六年振りの再会で、背丈も顔つきも変わっていたけれど、すぐに彼と気付くことはできた。
しかし隣に見知らぬ赤髪の女性が立っていて、あろうことかその人と仲睦まじそうに手を繋いで歩いているところを見て、一瞬別人なのではと自分の目を疑ってしまったほどだ。
でも、別人なんかではない。目の前の青髪の青年は間違いなくソルベだ。じゃあ隣の赤髪のあなたは……?
「その人は、誰……?」
「……」
「私、ずっと待ってたんだよ。十八になったら迎えに来てくれるって、あなたが言ったから。私ずっと、フレーズ村で待ってて……」
ソルベは気まずそうに目を逸らしてしまう。
そして心なしか面倒くさそうにため息を吐くと……
直後、彼から耳を疑う台詞を掛けられた。
「田舎娘が、分を弁えろ」
「……」
「俺はタルトレット王から直々に護衛任務を授かった近衛騎士だぞ。騎士称号を授かった時点で伯爵位となる。田舎村の平民の娘が、今さら対等な立場になれると思うなよ」
頭を、重たい鈍器でぶん殴られたような、そんな衝撃を受けた。
まさかソルベから、そんな手厳しい言葉を掛けられるなんて思ってもいなかったから。
その後のことは、よく覚えていない。
その場で泣きじゃくったのだったか、惨めに逃げ出したのだったか……
気が付けば私は王都の宿部屋に閉じこもっていた。
後に聞いた話だが、ソルベは下士官になった時から貴族の令嬢たちと交流するようになったようだ。
そして近衛騎士になったことで、正式に求婚をされることが多くなったらしい。
その中の一人である伯爵家の御令嬢と、今は恋仲になっているのだとか。
正式な婚姻はまだ先の話だそうだが、お互いに前向きな姿勢を見せているという。
騎士称号を授かった時点で伯爵位となることは当然知っていた。
でもたったそれだけで、ソルベがここまで変わってしまうなんて思ってもみなかった。
環境は人を変える、とはよく言うが、あの優しかったソルベが結婚の約束まで破るようになるなんて。
いや、世間的に見ればそれが当然の流れなのかもしれない。
伯爵位と見做される近衛騎士と、田舎村に住む平民の娘なんて、とても結婚ができる間柄ではない。
それなら……
「彼を、振り向かせてみせる……!」
ソルベと対等な立場になれば、再び彼を振り向かせることだってできるはずだ。
私はソルベのことを諦めない。もう一度こちらに振り向かせて、昔の優しかったソルベに私が戻してみせる。
そして対等な立場になれる方法が、私にも一つだけ残されていた。
「宮廷治癒師?」
「うん。私、宮廷治癒師になる」
王都からフレーズ村の実家まで帰って来るや、私はお父さんとお母さんに決意表明をした。
宮廷治癒師。
軍の遠征任務に付き添う治療部隊とは違い、特別に治癒師としての腕を買われた貴重な存在。
そのため宮廷内に設けられた治療院にて、遠征から帰還した王国軍や騎士団の治療に専念している。
基本的には町や村の治療院で活動しているところを勧誘されたり、王国軍の治療部隊で功績をあげた場合に宮廷治癒師になれるけど、定期的に王都で宮廷職試験も執り行っており、そこで合格した者も宮廷治癒師として認められる。
合格率は極めて低いが、宮廷職は叙任された時点で一世代限りの伯爵位となるため、平民の私がソルベと対等な立場になる方法はこれしかない。
「実家の治療院を継ぐって話だったけど、どうしても宮廷治癒師になりたいの」
「急にどうしたのよシャル?」
「王都で何かあったのか?」
心配そうに尋ねてくるお父さんとお母さんに、王都で起きたことをすべて話した。
すでに私は気持ちの整理がついていて、落ち着いた声音で話せたと思ったが、二人は気遣ってくれる様子で私の話を聞いていた。
そして宮廷治癒師を目指すことも理解してくれて、本当は私のことを引き止めたかったみたいだけど、優しく背中を押してくれた。
その日から私は、ただひたすらに治癒術の腕を磨き続けた。
精霊術。
人は生まれながらに体内に精霊を宿していて、その精霊の力を借りて超常的な現象を引き起こすことができる。
手の平から火の玉を放ったり、風の刃を吹かせたり、雷を呼び起こしたり……
そのうちの一つに、傷を治したり毒や呪いを取り払う治癒術と呼ばれるものがある。
私たち治癒師はその治癒術を使って、治療院にやって来る怪我人たちを治療しているのだ。
そして精霊は大きさによって精霊力が変わり、精霊力が高ければ高いほど強力な術を扱えるようになる。
『シャルの精霊は白精霊なのか。治癒術が得意な精霊さんだよ』
『じゃあじゃあ! 私も治療院のお手伝いできるようになる!?』
『うーん、でも精霊さんがとても小さいから、いっぱい精霊術を使って精霊さんを成長させないといけないかなぁ』
精霊には色の種類もあり、それによって得意な精霊術も変わってくる。
私は治癒術が得意な白精霊を宿していて、特別精霊の色素も濃い治癒師向きの体質だったらしい。
しかしその代わりに精霊がとても小さくて、一、二回治癒術を使っただけで精霊が疲れてしまった。
だから治療院の手伝いをまともにできるようになるまで、十年近く時間が掛かってしまった。
そして今、さらに治癒師として腕を磨かなければならないので、私は新しい方法で修行を始めることにした。
「痛っ!」
精霊は得意な系統の術を使うほど成長が早い。
つまり白精霊を宿している私は、治癒術を使うほど精霊力が早く高まっていく。
しかしこれは空撃ちでは意味がない。
実際に魔獣を倒したり、傷を治したりしたという“経験”がなければ精霊は成長をしてくれないのだ。
だから私は、“自傷”を繰り返して治癒術を使った。
「【麗らかな木漏れ日――痛みを背負いし傷者に――慈悲深き救済を】――【治癒】」
ナイフを片手に、自分で自分を傷付けて、治癒術を使って傷を治して、また自分を傷付けることの繰り返し。
生半可な傷では経験として加算されないため、かなり深い傷を付けて治癒術で治した。
危険な方法ではあるが、いち早く成長するためなら一番効果的な方法である。
もちろんお父さんとお母さんには止められると思ったので、治療院の手伝いの合間を見て、二人に内緒で自傷修行を行った。
それからある程度精霊力が高まると、お父さんとお母さんから許可を得て、隣町まで慈善の治癒活動をしに行ったりした。
加えて傭兵たちの魔獣討伐などにも参加したりした。
自分の傷を治すだけでは成長にも限界があり、何より精霊力を高めるだけでは宮廷治癒師になれないと思って、実戦経験も積んでおくことにしたのだ。
魔獣との戦いで毒や呪いを受けた人を治したり、戦場で実際に怪我をした人を治療したり……
そんなことをしているうちに傭兵団や宗教騎士団から勧誘を受けるようになっていて、貴重な経験の場を無駄にするわけにはいかないとあらゆる場所で治癒活動をするようになった。
依頼を受けて、傷付いた人を治す……
依頼を受けて、傷付いた人を治す……
依頼を受けて、傷付いた人を治す……
依頼を受けて、傷付いた人を治す……
依頼を受けて、傷付いた人を治す……
私はひたすらに治癒活動を続けて、治癒師としての腕を磨き続けた。
またあの人に、振り向いてもらいたいという一心で。
それから五年の歳月が経過した。
二十五歳となった私は今……
「『救世の聖女』様! 本当にありがとうございます!」
「聖女様が来てくださったおかげで、この町の怪我人たちはすっかり元気になりました!」
「そ、その呼び方はやめてくださいってば」
町で治癒活動をしながら、大勢の人々に囲われて『救世の聖女』と称えられていた。
なんで? と私の方が聞きたいくらいである。
どうやら至る所で治癒活動をしていたせいで、治癒師シャルロットの名前が広く知れ渡ってしまったらしい。
いわく、死んでなきゃなんでも治せる聖女様、と。
私の中に宿っている白精霊は、この五年間のがむしゃらな修行の成果でかなり大きく成長した。
加えて色素の濃さも相まって、私の治癒術は“失われた手足を生やす”ほどにまで覚醒を遂げたのだ。
そして国中で治癒活動をしているうちに、実力と名前が広まって、ついにはヴェルジェ王国のタルトレット王にまで知られてしまったらしい。
『そなたの慈悲深き善行に敬意を表し、タルトレットの名のもとに“救世の聖女”の称号を授与する』
突然宮廷にお呼ばれされたと思いきや、タルトレット王からそんなことまで言われてしまった。
“聖女”の称号は、現代で稀代の活躍をした治癒師に贈られる大変名誉な代物らしい。
村の一つを救った程度ではもらえるものではないようだが、五十以上の町や村を助けた私は聖女称号を授かるに値すると見做されたようだ。
そして聖女の称号は授与時点で“侯爵位”と同列視されるらしく、希望すれば王様から相応の領地を与えてもらえたりするようだ。
侯爵位。つまりは伯爵位と見做される近衛騎士よりも立場的に上になる。
宮廷治癒師にならずとも、私はそれ以上の立場の人間になることができたというわけだ。
しかし私はあれ以来、元婚約者の幼馴染ソルベとは一度も会っていない。
彼を振り向かせるために宮廷治癒師を目指して、こうして対等以上の立場になることはできた。
しかし私はすでに、彼への思いをすっかり忘れたのだ。
いや、思い直したと言った方が的確だろうか。
初めて好きだと言ってくれて、独りぼっちだった私に優しく接してくれた幼馴染。
だけど治癒活動を通して、私はたくさんの人たちから称賛を受けることができた。
彼しかいないと思っていたけど、私のことを信じて見てくれている人は他にも大勢いるのだ。
ということがわかり、狭まっていた視野が広がって、ソルベに固執することをやめた。
何より思い返してみたら、あの男は私との結婚の約束を一方的に破り、どこぞの伯爵令嬢とよろしくやっていたんだぞ。
どうしてそんな奴と縒りを戻さなければならないのか。
そう考え直した私は、ソルベ・フォンドルのことをすっかり忘れて、今は聖女としてたくさんの人々を救うことを目標に治癒活動をしている。
お父さんとお母さんの治療院の手伝いをしながら、遠方から届いた治癒依頼をこなし、治癒師として順風満帆な生活を送っていた。
そんな、ある日のこと……
「うちの治療院に何をしに来た。今すぐに帰ってくれ」
「娘に、二度と顔を見せないでください」
「んっ?」
治療院にお客さんがやって来て、何やらお父さんとお母さんと険悪な空気になっていた。
何事だろうと思って、自室から様子を見に行くと……
「シャル、久しぶりだな」
「ソ、ソルベ……?」
元婚約者の幼馴染、ソルベ・フォンドルが治療院の玄関に立っていた。
なぜ彼がここに、という疑問はあったけれど、温厚なお父さんとお母さんが珍しく嫌悪感を滲ませていた理由は察せる。
目先の利益や名誉のために、私との婚約を破棄して伯爵令嬢様とよろしくやっていたソルベを許せないのだろう。
私が王都から帰って来たあの日、お父さんとお母さんは優しく私を励ましてくれる一方で、ソルベに対して憤りを覚えている様子だったから。
それに彼への想いを忘れたと言った時は、二人とも心底安心した顔をしていたし。
「ここに、何しに来たの?」
「シャルに話があって来たんだ。少しだけ時間いいかな?」
王都で会った時とはまるで別人みたいに、あるいは昔みたいに優しい声音でそう言ってくる。
正直、彼への想いを完全に忘れた今、話すことすら私は億劫だと思ってしまった。
そもそも今さら、いったい何を話そうと言うのだろうか?
けれど簡単に引き返してくれそうもなかったし、お父さんとお母さんにこれ以上迷惑は掛けられないと思って、私は彼に提案する。
「じゃあ外で話そう。昔よく一緒に遊んでた、森の入口近くの切り株畑のとこ。あそこなら人気もないし」
「切り株畑? そんなところで遊んでたっけ?」
「……」
私はため息を呑み込みながら、ソルベを連れて外に出ようとする。
そこをお父さんとお母さんが呼び止めようとしてきたので、私は心配を掛けさせないように二人に笑みを向けた。
「大丈夫、ちゃんと話つけて来るから。二人はここで待っててよ」
そして私はソルベと一緒に、村近くの森の切り株畑までやって来た。
昔はよくここで二人きりで遊んだり、ソルベが家から持って来てくれた本で勉強のようなことをしていた。
私たちの遊び場と言えばここが代表的なんだけど、彼はそれすらも覚えていないみたいだ。
「で、話って何?」
ソルベと二人きりになって、私は改まって彼に問いかける。
すると彼は柔和な笑みをこちらに見せながら、躊躇う素振りもなく言った。
「俺と結婚しよう、シャルロット」
「……はっ?」
「あの時約束しただろ。将来結婚しようって。まさかその約束を忘れてしまったというわけじゃないだろう?」
「……」
自分の耳を疑った。
幻聴でも聞こえたのではないかと思ってしまった。
今さら結婚しようだなんて、いったいどの口が言っているのか。
「……あなたの隣にいた令嬢様はどうしたの? 恋仲だって聞いたけど」
「令嬢? あぁ、ペッシュのことか。確かに五年前は恋仲だったが、正式な婚姻までは結んでいない。故郷から離れたことで、寂しさを紛らわすために交際をしていたが、俺はシャルロットとの約束を忘れたことは一度もないよ」
もはや怖いくらい平然とした様子でそう言ってくる。
あれだけ手厳しく私のことを追い払っておいて、約束を忘れたことはないなんてよく言えたものだ。
「王都では心ない言葉を掛けてすまなかった。騎士称号を授かって間もない頃だったから、少しピリピリしていたんだ。でもあれからしばらく経って、シャルと過ごした幼少時のことを強く思い出して、君への想いがまた一層大きくなった」
それでもソルベは語ることをやめない。
あからさまに優しげな表情を浮かべながら、こちらに手を伸ばしてきた。
「だから結婚しよう、シャルロット。もう二度と、君に寂しい思いをさせたりはしない」
そよ風によって森の葉が微かに揺れて、それすらも耳障りに感じてしまう。
それほどまでに私は今、気持ちをピリピリとさせていた。
この男は、本当にどこまでも……
やがて我慢ならず、吐き出すように笑い声をこぼした。
「……聖女の称号が惜しいだけでしょ」
「えっ?」
「あなたは本当に、目先の利益や名誉のことしか考えてないのね。貴族の御令嬢に求婚されたら、私のことを捨ててそっちに靡いて、私が『救世の聖女』の称号を授かった途端、人が変わったみたいにまたこっちに擦り寄って来て……」
私は久しく声を荒らげながら、ソルベを強く批判した。
「あなたはシャルロット・プリエールと結婚したいんじゃなくて、『救世の聖女』っていう称号と結婚したいだけでしょ!」
「――っ!」
「伯爵家の御令嬢と恋仲になったのだって、平民の田舎娘より格式が高かったからでしょ! それで私との婚約も破って、二年もほったらかしにして……」
いい人がいたらそっちに靡いてしまうのは仕方がないことだ。
でもだからって何も言わずに結婚の約束を破って、二年もほったらかしにして、挙げ句の果てに救世の聖女の称号を授かった瞬間に擦り寄って来るなんてあまりにも身勝手すぎる。
彼をまた振り向かせるために治癒師としての腕を磨き始めたのは事実だけど、聖女としてたくさんの人に認められたことで、自分が間違ったことを考えていたのだと私はすでに思い直しているのだ。
「はっきり言えばいいじゃない。『聖女となった今なら結婚してやってもいいぞ』って」
「お、俺は、そんなことを言うつもりは……」
「そんな身勝手な奴と、今さら結婚なんてするわけないでしょ。私はもう充分に幸せなの。だから諦めてさっさと帰りなさい。それで二度と、私の前に顔を出さないで」
王都で手厳しく追い払われた時の仕返しをするように、今度はこちら側が彼を追い払う。
するとソルベは、突然優しげな表情をどこかに捨て去り、激しく顔をしかめた。
「あの時の約束を破るつもりか、シャルロット……!」
「鏡でも見えてるのかしら。先に約束を破ったのはどっちよ」
どうせ結婚の約束を口実に聖女となった私を囲おうとしたのだろうけど、そうは許さない。
先に約束を破ったのはそっちの方なのだから。
「だったら腕尽くでも“お前”を連れて帰ってやる……!」
すると突然、ソルベは右手を構えてこちらに向けてきた。
「【不可視の砲弾――罪深き咎人に――裁きの一撃を】――【衝撃】!」
刹那、彼の右手から空気の揺らぎのようなものが射出される。
目に見えない衝撃波で敵を撃つ中級の精霊術――【衝撃】。
どうやら私を気絶させて、強引に町に連れ去ろうという魂胆らしい。
凄まじい衝撃波が地面の草花を蹴散らしながら迫って来て、ソルベの卑しい笑みが視界の端に映った。
しかし、私は避けなかった。
「なっ――!?」
どころか、防ぐことすらしなかった。
私に直撃するはずだった衝撃波は、目の前まで迫った瞬間、不可視の壁に阻まれたようにそこで消失した。
余波で吹いた微かな風だけが、私の銀髪を揺らしながら横を通り抜けていく。
「な、なぜ、俺の精霊術が効かないんだ……? いったいお前は何をして……」
「何って、ただの『精霊衣』よ」
「はっ?」
精霊衣。
精霊が無自覚に宿主の周りに発生させている精霊力の“壁”。
宿主の身を守るために張られているものだとされているが、本来は外部からの害意を“多少”和らげるくらいの効果しかない。
けれど私の場合は、極限までに高められた精霊力によって、中級程度の精霊術なら“自動的”に、“完全無効化”することができてしまうのだ。
「精霊衣のみで、俺の精霊術を防いだというのか……!? な、なぜそこまで精霊力を高めることができたんだ!? シャルにそんな才能はなかったはずなのに……」
目を見開いて唖然としているソルベに、私はため息交じりに告げた。
「あなたは、本気で人を好きになったことがないのね」
「はっ……?」
「あなたに振り向いてほしいから、宮廷治癒師を目指して腕を磨いてきた。痛くて辛いことも我慢できた。だからここまで精霊力を高めることができたのに、それだけの想いをあなたは踏みにじったのよ……!」
語気を強めてそう告げると、ソルベは慄くように顔をしかめた。
そこに追い討ちを掛けるように、私は続ける。
「さっさと町に帰りなさい」
「そ、そんな……! 待ってくれシャル! まだ話は終わって……」
「いいから帰れ!」
瞬間、ソルベは気圧されたように小さな悲鳴を漏らし、切り株畑から走り去って行った。
本当は精霊術の一つでもお返ししてやりたいところではあったが、昔優しくしてくれたことに免じて見逃してあげることにする。
それに私がここまで強くなることができたのは、彼が婚約を破棄してくれたおかげでもあるから。
ソルベが変わって、私のことを振ってくれたから、今の聖女としての私が存在している。
思えば私たちは、どこか似ている節があるのかもしれない。
近衛騎士になって御令嬢たちから求婚されるようになって、名誉に目が眩むようになったソルベ。
聖女になって周りの人たちから認められるようになって、自信をつけることができた私。
環境は人を変える。私もそのうちの一人なのかもしれない。
これで完全にソルベとの関係を断ち切ることができて、私は晴々とした気持ちで治療院に帰ることができた。
それから程なくして、呪われた隣国の王子様が聖女の噂を聞きつけてやって来たり、お父さんとお母さんに勧められて自分の治療院を開いたりするのは、また別のお話。